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オリンピックの話◆第10話 最終聖火ランナー その1

2004-08-24 | └オリンピックの話
オリンピック開会式のメインイベントは何と言っても聖火点火です。今回のアテネ五輪でも、あのずいぶん凝った造りの聖火台に火が灯された瞬間に、様々なドラマへの期待をふくらませてくれました。

そして、いつもマル秘中のマル秘とされるのが、最終聖火ランナーが誰かということ。今回は、よくわからない「3人の最終ランナー」でしたが、これまでの歴代最終ランナーには、様々な思いや背景が秘められています。

アベベがマラソンで金メダルをとった第17回ローマ大会(1960年)。

ボクシング競技のライトヘビー級を制したのは、米国のカシアス・クレイという選手でした。彼は、黒人であることを理由にレストランへの入店を拒否されたことに抗議してその金メダルを川に投げ捨ててしまうなど、物議をかもした選手でもありました。

大会後、彼はオリンピックの金メダルという勲章を胸に、すぐにプロに転向します。彼はもともとクリスチャンでしたが、米国内で急速に勢力を拡大していた「ネーション・オブ・イスラム(NOI)」に接近していきます。持ち前の反抗精神が、NOIの中心教義であるブラック・ナショナリズムと合致したということでしょうか。ただ、NOIの指導者マルコムXやイライジャ・モハメドは政府から危険人物としてマークされていたため、彼自身もNOIとの関係をひた隠しにしていました。

1964年、彼は世界タイトルマッチに挑戦し、下馬評を覆す強さでチャンピオンをマットに沈めました。試合後の記者会見で彼はNOIのメンバーであることを発表するとともに、NOIからもらった新しい名前「モハメド・アリ」を名乗ることを宣言します。

こうして、史上最強の世界チャンピオンであり、同時に過激な黒人解放運動の闘士、「モハメド・アリ」が誕生したのでした。しかし「モハメド・アリ」は、黒人大衆を除いては、米国社会に受け入れられることはありませんでした。

とくに彼に対する反感を招いたのは、ベトナム戦争の時の徴兵拒否でした。彼は、NOIの教義に従って、白人の戦争であるベトナム戦争への参加を拒否したのですが、その結果はボクサーとしての立場をも危うくすることになります。米国内ではタイトルマッチの会場が借りられなくなったばかりでなく、徴兵拒否が裁判で有罪判決を受けると、世界チャンピオンのベルトとともにプロボクサーのライセンスまでも没収されてしまったのです。彼は米国を離れ、海外で戦うしかすべがなくなりますが、ボクサーとしてはこの時期がピークだったと言われています。

その後、ジョー・フレイジャーに敗れて一度はチャンピオンの座を失いますが、彼はなんと、そのフレイジャーを破ったジョージ・フォアマンに挑戦することを決意します。しかも「世紀の一戦」の舞台として彼が選んだのは、アフリカ、ザイールでした。

ザイールは、モブツの独裁政権が支配する国であり、タイトルマッチのファイトマネーは国民からの搾取によって作られました。アリ自身、そのことは知っていたはずですが、なぜ彼は黒人から巻き上げた金で戦うことに同意したのでしょうか。その裏には、CIAなど様々な影がうごめく状況もあったようですが、不可解と言わざるを得ません。

それはともかく、「ジャングルの決闘」はアリの勝利に終わりました。「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という彼独特のボクシングスタイルは失せていたものの、それは徹底した「守り」による勝利でした。アリはこうして再び頂点に昇りつめますが、彼の肉体はすでにボロボロの状態でした。

1996年、第26回アトランタ大会開会式。アリは、最終聖火ランナーとして久しぶりにその姿を世界に見せてくれました。しかも、パーキンソン病という不治の病と闘う姿を。米国がアリを最終ランナーとして選んだという事実は、アリと米国社会との和解を示すものでした。またアトランタは、国内で試合ができなかった時期に、唯一彼を歓迎し、試合が許された町でした。

アリはどんな思いで聖火を掲げていたのでしょうか。

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