風塵社的業務日誌

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ある入力原稿(不定期連載005)

2015年03月13日 | 任侠伝
 中学二、三年ころには、貝渕地区・新田地区グループ、市内グループ、桜井グループなどの不良グループがあり、そのグループの対立争いがよくあり、けんかが絶えないのである。俺も中学に入るころからグループに携わるようになる。そして市内へ行けば市内グループと、また学校へ通う登下校には桜井グループとよくけんかになった。特に桜井グループとは、卒業式の日に請西の寺の境内で大ゲンカとなり、新聞ざたになるほどであった。
 もちろん、俺も先頭になってけんかに加わったのはいうまでもない。このようなことは、毎年ある卒業式行事みたいなもので、時には先輩まで応援に来る始末であった。
 俺は当然そのころも納豆売りをしており、市内にも売りにいくのだが、ある日市内の不良グループと鉢合わせになり、市内グループの連中に連れられ證誠寺の境内に行き、四人に囲まれて売り上げを出せとカツアゲされた。売上を取られるわけにはいかないので、四人相手にけんかとなる。もちろん勝てるわけもなくボコボコにされたが、途中で證誠寺の坊さんが現われてきたため相手は逃げていき、腫れた顔を見て坊さんがけがの手当てをしてくれるといってくれたが断った。
 納豆はバラバラにされたが、売上を取られることはなく、バラバラの納豆を拾い、坊さんに頭を下げてその場から去ったのだが、俺には考えがあったからだ。けんか相手の中にいた一人の家を、俺は知っていた。その足で相手の家に行ったのだ。納豆をバラバラにされ、黙って引き下がるような俺ではなく、殴られたうえ商品を売り物にならなくされたのだ。
 相手の家にいくと、相手はもちろんいなかったが、出てきた母親に内情を説明して、拾って持ってきたバラバラの納豆を全部買い取ってくれと迫った。15個くらいだったと思う。300円を請求した。母親は、自分の息子一人でやったことではないし、そんな金払えないと言ってきたが、「別のヤツのことはそっちでなんとかしろ。とにかく買い取れ」と大きな声で迫っていたら、今度は父親が出てきた。
 父親は奥で話を聞いていたらしく、「なんだ、このガキ」と言いながら、いきなり納豆を入れていたかごを蹴飛ばしたのだ。俺は頭にきて、「上等だ。買い取るまで、俺ぁここから動かないぞ」と大声で騒ぎ、「出るとこ出てもいいぞ」と迫ってやった。近所の家にも聞こえていたので、近所の人が何人も出てきた。かっこ悪いせいか、父親は家の中へ引っ込んでしまい、母親が出てきて近所の人に見えないように金を渡し「早く帰ってくれ」と言ってきた。
 両親とも謝りもしないので、金だけで済む問題じゃないだろと言い返してやったが、あまり親に言っても仕方ないので引き揚げることにした。その件以来、市内グループからの言いがかりやトラブルがぴたりと止まったのだ。
 母と二人暮らしをして生活していたため、小さいころからよく歌えと歌えと母に言われ、母が仕事をしているときによく歌わされた。中学二、三年ころのある祭りの日、やぐらの上に上って歌えとの話になった。のちの話で、近所で歌の上手な出口さん兄弟という人がいるのだが、祭りなどの司会をよくしている人だったのだが、母親が俺に内緒で出口さんに俺が歌えるように頼んでいたのである。初めてやぐらの上で歌ったのだが、その後祭になるたびにやぐらの上に呼ばれて歌うようになった。
 そのような中学生活が過ぎ卒業が近づくにつれ、あまり学校に通っていなかったので、学校側から母に、いまからでも通えば卒業できるとの話が来た。母は、出席日数が少ないので卒業はできないと思っていたらしく、その話のあと、学校に毎日通うように言われ、通うこととなる。
 その後、進学組と就職組に分けられ教育を受けるのだが、俺は就職組にいたのだが、進学組と就職組の間に妬みや誹謗を言うようになり、小さなトラブルも出だした。
 そのようなことがあり、〝見得〟〝意地〟なども出て、俺だって進学できると見栄を張ってしまった。それに対して相手に、「できもしないことを言う。うそつきだ」と言われ、俺は意地でも高校に行ってやろうと思うようになる。その後、勉強したのだがわかるはずもなく……、しかし、定時制なら無試験みたいなものだと聞いたので、定時制を受けることを決める。
 当時の試験は○×式が多かったので、ほとんど勘で答えたら、思ったとおり受かることができた。しかし、前にも話したとおり、辞典の件で鈴木八百屋を辞めたのが五月だった。そしてすぐ、市内の食料品店で働くこととした。仕事内容はほとんど変わらず、客も持っていたし、市場の出入りをしている人たちなどとも仲良くしてもらっていたので、なにも心配なく、困ることもなかった。その食料品店は平野さんという人が主人で、八百屋、魚、みそ、しょう油などを売る店であった。
 学校へ行きながら働くという条件を聞いてもらい、働き出したのだが、学校の勉強ははじめからなにがなんだかわからないことばかりで、友だちとの差は開くばかりであった。そんなとき、中学校時代の友だちと市内でバッタリ会うこととなる。その友だちは小田という友だちで、就職組で東京に働きに行っていた。その小田の話で、菓子問屋で働く人を探していることを聞かされた。
 小田はその菓子問屋の近くで働いていたのだが、その問屋さんからだれか働く人がいたら紹介してくれと頼まれていたのだ。小田は俺のほかにだれか働く人はいないかと相談してきた。小田自身は、俺は学校に行っているため、俺に行くことを頼むのではなく、ほかにだれかいないかとの話だった。その場は聞き流すこととなったが、小田の連絡先だけ聞いておいた。
 俺も二、三人にその話をしたのだが、だれからもよい返事が返ってくることはなかった。そんなこんなで、俺は学校の勉強についてゆけず行き詰っていたり、東京という憧れもあり、俺自身が行って働いてみようかと考える。母に相談、話し合いをしたが、もちろん反対される。母は自分のもとにいてほしいとの考えであり、母の提案があった。「おまえは客商売が上手だし、客も持っている。人に使われるのがいやなら、リヤカーを買ってあげるから、自分で商売でもなんでも好きなことをすればいい」と話をしてくれた。

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