今日(12月22日)は 月に一度の「吾妻鏡を読む会」でした。
文治4年(1188年) 8月15日 鶴岳(つるがおか)の 放生會で 頼朝出席の下 流鏑馬が行われました。 (現在も行われているそうです 但し新暦の9月15日)
射手は 海野(うんの)幸氏と 諏訪盛澄 等。
海野幸氏は 10月28日にこのブログの 田楽でアップした 大姫(頼朝長女)と婚姻した 木曽義仲嫡男 源義高(清水冠者 冠者とは位のついていない者をいいます)に 付き人としてついてきた者です。
1184年 義仲が 義経に討たれた後 北条政子と大姫が 義高を逃がす時 義高の振りをして碁を打っていた いわば影武者でした。
義高は敢え無く (現在の埼玉)入間川で討たれるのですが その後この少年はどうなったのかと思っていました。
さすが信濃源氏の武士 4年後15才と思われますが 流鏑馬の射手を勤めるまでになったのですね。
吾妻鏡は 北条本をメインに 吉川本 前田本とあるそうです。
現在知られているのは 徳川家康が活版本にした 北条本が主の 家康好みと呼ばれるものです。
土地の所有権 とか 地頭の横領とか 些細な諍いに 頼朝はえこひいきなく実に的確に 審判を下します。 家康が大いに参考にする筈です。
風呼r でした
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