このアルバムのユニークさは良くも悪しくもベースがゲイリー・ピーコックであることだろう。ゲイリー・ピーコックといえば、現代のピアノ・トリオの最高峰であるスタンダーズのベーシストでもある訳だけれど、その彼が60年代のフリー時代に突入する直前にビル・エヴァンスと残した唯一の記録という点だけでも価値があろうというものである。それにしても、この時期のエヴァンス・トリオにおけるレギュラーのベーシストはチャック・イスラエルだったという理由を考慮しても、どうしてピーコックとの共演はこれだけで終わってしまったのだろうか?。もちろんその理由は素人の私でもいろいろ考えるられる、いわく、これはヴァーブの企画で集めたメンバーであって、エヴァンスはあくまでもイスラエルが好みだった....とか、フリーの方に傾斜していたピーコックが今更こうしたオールドタイムな音楽に興味を示さなかった....などである。全く個人的な推測だが、おそらくその真相は前者であるまいか?。
このアルバムを聴くと、ピーコックはラファロほど攻撃的でもないが、イスラエルほど寡黙でもないという、一見、エヴァンスの音楽にぴったりのベーシストであるように思える。ところが聴こえて来る音楽には何故か生彩がないように感じるのである。それは何故といえば、エヴァンスとピーコックの音楽的資質があまりに似ているからではないだろうか。白人的にエレガントな美意識と、抑制された美しさみたいなものを身上にしている点で、両者はあまりに共通していたのだと思う。なのでセッションではお互いが触発されるというよりは、遠慮しあってしまい、出方をうかがっているうちに音楽を終わってしまっているようなところがあるのだ。こう書くとイスラエルも似たようなセンスではないかといわれるかもしれないが、彼の場合、あくまでもエヴァンスに寄り添っているようなスタンスが基本であり、ある種うなずきクンのようなところが、エヴァンスの音楽を邪魔していないという点で違っていたと私は思う。
ともあれ、このアルバムの音楽はある種スタティックな美しさはあるものの、「ムーンビームス」のように耽美的に沈み込むというではなく、どことなく低回したまま、最後まで音楽高揚しない憾みがあると思うし、一方で「リトル・ルル」とか「サンタが街にやってくる」みたいな、スウィングというよりは単なる空騒ぎに終わったような作品が重要ポジションに配置されているのも、なんとなく釈然としない思いも残る。
そんな訳でこのアルバム、何年に一度かは、決まって「このメンツなのだから、今度こそ....」と、期待を新たにして聴いてはみるものの、実はその度に肩すかしをくらう作品でもある。もちろん今回もそうなのであった。
このアルバムを聴くと、ピーコックはラファロほど攻撃的でもないが、イスラエルほど寡黙でもないという、一見、エヴァンスの音楽にぴったりのベーシストであるように思える。ところが聴こえて来る音楽には何故か生彩がないように感じるのである。それは何故といえば、エヴァンスとピーコックの音楽的資質があまりに似ているからではないだろうか。白人的にエレガントな美意識と、抑制された美しさみたいなものを身上にしている点で、両者はあまりに共通していたのだと思う。なのでセッションではお互いが触発されるというよりは、遠慮しあってしまい、出方をうかがっているうちに音楽を終わってしまっているようなところがあるのだ。こう書くとイスラエルも似たようなセンスではないかといわれるかもしれないが、彼の場合、あくまでもエヴァンスに寄り添っているようなスタンスが基本であり、ある種うなずきクンのようなところが、エヴァンスの音楽を邪魔していないという点で違っていたと私は思う。
ともあれ、このアルバムの音楽はある種スタティックな美しさはあるものの、「ムーンビームス」のように耽美的に沈み込むというではなく、どことなく低回したまま、最後まで音楽高揚しない憾みがあると思うし、一方で「リトル・ルル」とか「サンタが街にやってくる」みたいな、スウィングというよりは単なる空騒ぎに終わったような作品が重要ポジションに配置されているのも、なんとなく釈然としない思いも残る。
そんな訳でこのアルバム、何年に一度かは、決まって「このメンツなのだから、今度こそ....」と、期待を新たにして聴いてはみるものの、実はその度に肩すかしをくらう作品でもある。もちろん今回もそうなのであった。