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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲/ヘルシャー, マッテス&シュトゥットガルトRSO

2009年03月14日 16時46分07秒 | マーラー+新ウィーン
 同曲もこれで四種目だが、これちょっと変わり種といえるかもしれない。というのもこの演奏、1973年に録音されているのだ。コルンゴールドのヴァイオリン協奏曲といえば、モノラル期にハイフェッツがこの曲を十八番にした後は、近年のコルンゴールド・ルネッサンスまで間は、パールマンとプレヴィンがコンビを組んだ演奏くらいしかないと思っていたからだ。なのでCDが自宅に届いてクレジットを確認して、少しばかり驚いてしまった。つまり「なんだ、この曲は70年代の頃から、ヘルシャーみたいにそこそこ有名な人起用して、EMIみたいなメジャー・レーベルから録音されていたんじゃないか」ということなのだが、ひょっとすると、この曲、初演以来、こうして何度かは録音はされて、発売もされてたみたものの、たいして注目されずに埋もれ続けたということなのだろうか?。

 さい、ヴァイオリンのウルフ・ヘルシャーは70年代にデビューしたドイツ系のヴァイオリニストらしい。私も名前だけはかろうじて記憶にあるが、そのプレイを聴くのはもちろん初めてである(ちなみにウィリー・マッテスという指揮者は全く知らない)。肝心の演奏だが、端からそういうつもりで聴くせいもあるだろうが、どうも一昔前の演奏という感が強い。今のヴァイオリニストはコルンゴルトが作り出した甘くセンチメンタルなメロディーを、実にあっけらかんとなんの衒いもなく歌ってしまっているが、ヘルシャーはそのあたり、フレージングの節々に突っかかるところがあるというか、楷書体の立派な演奏ではあるものの、どうもこの曲の甘美さを解放することを躊躇しているように感じる。70年代といえば、この曲はほとんど「究極のアナクロニズム」だったに違いなく、あまりに甘ったる弾きすぎて、イージー・リスニングみたいな通俗に堕することをおそれたのかもしれない。 これが正しいとすれば、やはりこの曲、70年代にはまだ熟成が足りなかったということなのだろう。
 「音楽には時代など関係ない....」という人がよくいるが、やはり時代には密接に関係があると思う。その時代の雰囲気、ムードによって、同じ音楽でも聴こえ方が全く違ってくるし、演奏する方のさじ加減もそういうところを期せずして反映してしまうものだと思う。そういう風に時代にもまれて音楽というものは、古典化、ヴィンテージ化していくのだ。

 ちなみにこの演奏が収録された2枚組は、コルンゴルトの純音楽畑のいろいろな作品がスナップ写真のようにあれこれ入っていて楽しい。本来、協奏曲とカップリングされていた組曲「空騒ぎ」と「主題と変奏」はディスク2に入っている。前者はシャハムのところで紹介したものの管弦楽版で、あちらには入っていなかった序曲も含めた全5曲、神童コルンゴルトの面目躍如たる絢爛たるオーケストラ作品だが、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」みたいな軽みをおびたファンタスティックさがなんとも楽しい。また晩年の「主題と変奏」はブラームスの「ヘンデル変奏曲」をぐっとリラックスさせたような作品で、子守歌のような主題を元に、性格変奏の持つ技巧的な楽しさにプロムナード・コンサート的な平易さを合わせたような作品で、ハイライトでは高らかに元のテーマが戻ってくるあたりは変奏曲のお約束とはいえ、とても楽しめる仕上がりだ。
 あと、録音はさすがに70年代なのでやや時代を感じさせる。この時期のEMIらしく、やや金属的でキンキンするところがあって、協奏曲の方はヴァイオリンの音色共々ちと気にならないでもなかったが、後者の2曲は耳にあまりに馴染みがない作品だけあって、それほど抵抗はなかった。
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コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲/シャハム,プレヴィン&LSO

2009年03月09日 23時46分51秒 | マーラー+新ウィーン
 コルンゴールドのヴァイオリン協奏曲もこれで三種類目、今度のはギル・シャハムのヴァイオリン、バックはムターと同じプレヴィンとロンドン響という組み合わせで、録音は1994年とあるから、ムターのそれをさかのぼること10年前ということになる。ギル・シャハムは初めて聴く人だが、1971年生まれというからこれを録音した時はまだ三十ちょいといったところで、売り出し中の若手だったのだろう。1997年にコルンゴールドの生誕百年という時期もあったにせよ、こういう人達が果敢にも同曲を取り上げ、レコーディングしたせいで、この曲もここ10年くらい徐々に有名曲の仲間入りを果たしたというところなのかもしれない。そう思うとムターの演奏はある意味、真打ち登場みたいなところだったのだろうか。

 さてこの演奏だが、これはほぼ満点な演奏という気がする。まずシャハムのヴァイオリンだが、近年の若手らしく端正でクリーンな演奏テクニックをベースにしつつも、とにかく美しく伸びやかに良く歌うのが特徴だと思う。ムターのようなやや筋肉質で生真面目な演奏だと、こういう曲の場合、やや違和感を感じないでもなかったが、この人の場合、そうした意味ではまず演奏にクセがないし、ユダヤ系らしい少しねっとりしたような甘美さが、なんともコルンゴールドの個性にマッチしていて、第二楽章のとろけてしまいそうな旋律を弾く部分など、これまで聴いた演奏の中では群を抜いて、その旋律の感傷的魅力を楽しませてくれたし、動きの激しい第三楽章も抜群の安定度で、最後まで駆け抜けていくのは快感である。おまけにプレヴィンとロンドン響のバックはほぼ完璧にコルンゴールド的な世界をつくっているし、とりあえずどこを切っても全く違和感がない、素直にコルンゴールドの世界を楽しめる演奏といってもいいと思う。これまで聴いた三種の演奏ではソフトさでツウ、ハードさムターだとすると、シャハムはこの両者の調度まんなかくらいの感じといってもいいかもしれない(ちなみに録音はシャハムのものが一番良い)。

 ちなみにフィルアップとして収録されているは、プレヴィンがピアノで伴奏を担当した劇音楽「空騒ぎ」からの組曲が収録されている。私はコルンゴールドの「空騒ぎ」は恥ずかしながら未聴なのだが、とにかく、その劇音楽からいくつかの部分を組曲風にまとめた管弦楽版を、更にヴァイオリンとピアノのための組曲としたものらしい。シューベルトだのシューマンの室内楽を思わせる、ほのかなロマン性がにじみ出た第1曲。ダイナミックな動きを見せる第2曲。前述のヴァイオリン協奏曲の第二楽章のムードと共通するような甘美さが心地よい第3曲、世紀末の舞踏会のような雰囲気を第4曲と、いずれも小品ながらなかなか楽しめる。
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コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲/ムター,プレヴィン&LSO

2009年03月06日 23時43分52秒 | マーラー+新ウィーン
 3日に職場近くのショップで購入してきたもの。ムターが当時結婚したばかりだったプレヴィンを指揮に迎え、ロンドン響他をバックに収録したもので、一緒に収録されているのはチャイコフスキーの協奏曲である....というか、当然チャイコの方がメイン・ディッシュなんだろうけど、私といえば、もちろんコルンゴールドの方がお目当てである。先日来聴いているヴェラ・ツウという中国系(?)のおそらく女流が弾いた演奏は、無名とはいえ、やや細身だが、繊細で流れるようなフレーズと気品のあるムードのヴァイオリンがなかなかよくて、この曲はこれで十分みたいな気もしていたのだが、ムターとプレヴィン、そしてロンドン響、レーベルはDGという、当代一流の組み合わせともなれば、前述のアルバムより当然素晴らしい演奏が期待できそうだ....という狙いである。

 さて、演奏の方だが、先のアルバムのそれとはやはりかなり違う趣だ。ムターの演奏はカラヤンの秘蔵っ子としてデビューしたての頃にブラームスを1,2枚聴いた程度だが、さすがにこの四半世紀でDGの看板スターに成長しただけのことはある。恰幅が良く、振幅が大きく、重量感をも感じさせる、入念なフレージングは、マエストロ的なオーラを感じさせるに十分であり(ちなみにこの人、私より4歳下で、これを録音した時は40歳くらいだったはずなんだけど、なんだかやけ美人になってませんか?)、なにやらブラームスかベートーベンのソナタでも聴いているような、一点一画を揺るがせにしない、ある意味シリアスな趣すら漂わせている。故に非常に格調高い、ドイツ正統派らしいクウォリティの高い演奏といってもいいと思うのだが、この曲が持つ「映画音楽の主題を使った往年のウィーンの巨匠のノスタルジックな作品」という特徴を踏まえると、聴く人によっては賛否両論かもしれない。

 なので、この曲の持つ映画音楽的な甘美さだとか、感傷的なムードみたいなものを期待して聴くと、ちょっと違うかなという気もする。ただ、この曲をドイツ・ロマン派の最終ステージに位置する作品として、きちんと評価を定めるためにはこういう硬派な演奏が現れてこそ、古典化するのではないという気もするし、お世辞ではなく実際に聴いていて、その演奏の説得力は抜群である。ヴェラ・ツウの楚々とした淡麗な演奏も悪くないが、ムターの「そもそも協奏曲とはなんぞや」みたいな演奏の方が、むしろこの曲に相応しい佇まいなのではないかとも思う。ついでに書けば、バックはプレヴィンとLSOであり、この点では文句なし、ハリウッドもウィーンも知り尽くしたプレヴィンなればこその素晴らしくスケール感とパースペクティブは文句なしの音楽的感興がある。
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コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲/ツウ,ロン&ラズモフスキー・シンフォニア

2009年03月03日 23時39分33秒 | マーラー+新ウィーン
 ここでもう何度も書いているが、コルンゴルトの幼少時の神童振りは有名だ。10歳前後の頃にマーラーやツェムリンスキーを驚嘆させ、リヒャルト・シュトラウスもかくやという絢爛たる「シンフォニエッタ」を完成させたのが15歳、10代後半にはいくつもオペラを作曲し、なんなく人気作曲家の仲間入りをしたというから凄い。ついでに20代にはウィーン音楽大学名誉教授の称号をもらったり、楽壇ではシェーンベルクと並び称されるされるなど、要するに普通の作曲家なら優に60年はかかるであろう音楽的業績を二十数年で駆けめぐってしまったという感じだろうか。ひとつの文化の爛熟期にありがちな才能といってしまえばそれまでだろうが、やはり凄いことは違いない。
 しかし、「モーツァルトの再来」とまで呼ばれた、このユダヤの神童の順風満帆な人生はやがて翳りが見えてくる。いうまでもなくナチスの登場である。コルンゴルトはユダヤ人だったため、活動は思うにまかせず、結局、30代以降はアメリカに渡り、生活の糧として映画音楽をつくる羽目になる。ところが、さすがは大物コルンゴールドというべきか、彼はありきたりの映画音楽に身を堕とすことなく、オペラさながらのスコアを何本も書き、この分野でもパイオニアとして名を残すことになる。例えばジョン・ウィリアムスの「スター・ウォーズ」など聴けば、コルンゴルトの影響は明らかである。

 さて、この作品はそのコルンゴルトが戦後(1947年)につくった非映画音楽、つまりクラシック作品である。先日来、私はショスタコのヴァイオリン協奏曲でもって、ヴァイオリン・ソロに目覚めてしまったせいで(いや、未だ抵抗がなくなった程度かも-笑)、何か他の曲も聴いてみたくなったが、今更メン・チャイやベートーベン、シベリウスでもないだろうと思い、気まぐれでこの曲も聴いてみたという訳である。Naxos盤とはいえ、自宅にアルバムが一枚だけでもあったのは幸運だったという他ないが、一聴して文句なく魅了された。「なんでオレはこの曲の良さがこれまで分からなかったんだ」という感じである。
 この曲は彼がそれまで映画音楽で使った主題だのモチーフだのいくつも使われているのが特徴だ。第一楽章は「Another Dawn」、第二楽章は「Anthony Adverse」、第三楽章では「The Prince and the Pauper」という具合だが、ほんの少し引用するとかいう次元ではなく、主要主題としてほとんどそのまま登場するのが、彼の映画音楽を詳しい人なら、けっこう驚くところではないか。もっともコルンゴルト・ファンを自称する私でも、実はあまりそのあたりを煎じ詰めて聴いてはいなかったので(そもそも1,2度くらいしか聴いてなかったとも思うが)、改めてこの曲の成り立ちの特異性に驚いたという感じなのだが....。

 ともあれ、この曲は第一楽章の「Another Dawn」から転用された、伸びやかな壮麗さとウィーン世紀末特有のむせかえるほど充満したロマンティックなムードが合わさったテーマからして、心揺さぶられる。「Another Dawn」の音楽はもう何度も聴いているはずだが、映画という枠から解放された同曲のテーマが、さほどデフォルメされている訳でもないのに、これほどクラシカルな趣が持つとはやはり驚きだ。第二楽章では、とろけてしまいそうなくらい甘美で感傷的が旋律をヴァイオリンがリリカルに歌い、思わずうっとりというか、しばし陶然とする。第三楽章のテーマは「The Prince and the Pauper」からのものだが、こちらはもともとジョン・ウィリアムスの祖先のようなダイナミックな音楽だったので、最終楽章らしくその線でぐいぐい進む。ヴァイオリンもかなりテクニカルな動きで縦横無尽に活躍して楽しい。
 という訳で、「ショスタコの次はこれだぁ」という感じで気に入ってしまったのだが、カタログを探してみると、比較的若目の人がもっぱら手がけているようであり、これもまた今まさに古典化が進んでいる作品なのかもしれない。ちなみにこのアルバムでの演奏は、ソリスト、指揮、オケ共に全く馴染みのない面々によるものだが、あまりごてごてとせずプレーンな感じで品良くまとめた演奏(なんだろうと思う)、この曲を知るにはもってこいである。
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マーラー 歌曲集「大地の歌」/バースタイン&VPO、他

2009年02月13日 23時12分24秒 | マーラー+新ウィーン
 ゲルギエフがロッテルダム・フィルを振ったマーラーの交響曲第8番を観て、久しぶりにかの曲を聴いてみたくなり、クーベリック、テンシュテット、インバル、バーンスタインと立て続けに聴いたところで、「お次は....」とばかりに聴いているのが、この「大地の歌」である。私はかなりマーラーを愛好している方だと思うが、正直言って第8番と「大地の歌」はどうも馴染みがない。今回第8番の方は映像観て、いろいろと演奏を聴いたせいで、かなり馴染めた....というか、初めてうっすらと全貌が見えてきたような気もするのだが、ついでに聴いた「大地の歌」については、依然としてけっこうな難物だ。

 マーラーの交響曲をクロノジカルに眺めると7番までは、その音楽的な変遷やその必然性のようなものがある程度分かるような気がするのだが、8番以降はなにやら「生涯の総決算」とくくってしまえば簡単だけど、気宇壮大、西洋の祝祭的ムードが極限まで拡大されたみたいな第8番の後、どうして虚無的でしかも東洋風な「大地の歌」なのか?、まずそのあまりの落差のようなものが居心地が悪い。また、単体の曲としても、歌曲集と交響曲がないまぜになったような構成(ついでに書けば最終楽章だけ異様に巨大なのも)、そして随所に飛び出すちとあざといまでに中国風なエキゾチックな旋律など、個人的にはけっこう抵抗感を感じるのである。

 今回は、まずファリアーとキングをフィーチャーしたワルターとVPOによるモノラル期の名盤から聴いてみた。レコード時代から聴いていたものだが、改めて聴くとやはり音が貧相なのがつらい。また、ファリアーのリリカルだが深い感情を伴った歌唱も今の自分が聴くにはちと高カロリーすぎるような気がして馴染めなかった。そこでもっと録音が良く、もっと美麗なものということで、カラヤンとベルリンが70年代中盤に録音したものを聴いてみたが、こちらはとにかく録音が良いし、この時期のカラヤンらしく、滑るような美しさが出た演奏で、この曲のマーラー的なモノがいくらか見えてきたような気がしたので、そこそこ楽しんで聴いているところである。

 そんな訳で、調子にのってつい先日HMVで購入したのがコレだ。この演奏は通常アルトで歌う偶数楽章をフィッシャー=ディスカウが歌っている変わり種なのだが、実は「大地の歌」といえば、私が最初に購入したアナログ盤が他でもないこれなのであった。だからという訳でもないだろうが、「あぁ、コレコレ」とまでいかないものの、一聴して実にしっくりときた。バーンスタインの豪快さ、ウィーンのエレガントな音色、ありがちな絶叫調にならず、理知的にコントロールされたフィッシャー=ディスカウ....この三者のバランスが絶妙なのである(ついでに録音もデッカ最良の部類ではないか?)。という訳で、今の私が聴いて一番違和感のない「大地の歌」はコレだな。さて、実はこのアルバムと一緒にクレンペラーとフィルハーモニアによる有名なアルバムも購入したのだが、そちらはどうであろうか?。
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ツェムリンスキー 交響曲第2番/サイペンブッシュ&スロヴァキアPO

2008年11月17日 18時26分36秒 | マーラー+新ウィーン
 土日と出張が続いたので、今日はその代休、昨夜導入したしたAppleTV+MD10の組み合わせで我が家のiTunesライブラリーを縦横に駆使して(ってほどでもないが)、久方ぶりメインのオーディオ・システムで音楽三昧の一日となった。現在我が家のiTunesライブラリはアルバムにして、1000枚になろうとするところだが、さすがに1000枚ともなるとかなりライブラリらしく網羅されてきた感じだ。リンゴ・スター~ロレツ・アレンクザンドリア~バルトーク~バーナード・ハーマン~荻野目洋子といった様々な音楽を、気の赴くままにCD棚にいかなくとも、音楽をするすると聴けるのはけっこう楽しいものだ。ツェムリンスキーもそうした音楽三昧の中で何故だか出てきた人で、このあたりの音楽の連想ゲームみたいなものを深層心理学的に解読したけっこうおもしろいかもしれない。

 さて、ツェムリンスキーはシェーンベルクの師匠として有名だが、けっこう残している作品は決して有名とはいいがたい。かろうじて有名なのはマーラーの「大地の歌」やベルクの「抒情組曲」でよくその関連を取り沙汰される「抒情交響曲」くらいだろうか。ただ、80年代後半くらいだったか、マゼールがその「抒情交響曲」をベルリンPOと録音したりから、ラサールが弦楽四重奏曲集を完成、その後しばらくしてリッカルド・シャイーが「人魚姫」を手がけたりして、近年も散発的にアルバムも出ているようだから、まぁ、コルンゴールドほどではないにしても、少しづつ着実に再評価されきている人ではないかと思う。このアルバムはナクソスの兄弟レーベルマルコポーロが大分以前に出た作品で、新ウィーン楽派が大好きな私としては、ツェムリンスキーという名前だけは有名な人の交響曲ということで購入してきたんだろうと思う。
 ツェムリンスキーは「マーラーとシェーンベルクを橋渡しする人」という形容もされたりするけけど、このワーグナーとブラームスが幸福に結合したような交響曲を聴く限り、マーラーなどよりよほど保守的な作風だと思う。また、これはツェムリンスキーの個性なのだろが、大上段に振りかぶったようなシリアスなところがなく、音楽は全般にウィーン風な中庸さに満ち満ちていて、ある意味非常に聴きやすい作品だ。

 ちなみに第一楽章はやや軽めではあるがワーグナーの「ローエングリン」的な壮麗さをリヒャルト・シュトラウスばりオーケストレーションでもって、まさに「ドイツロマン派の王道」みたいな作風であるし、第2楽章はブルックナーをやや淡泊にしたようなスケルツォ、第三楽章は「バルシファル」風な静謐さをもった瞑想的雰囲気の強い緩徐楽章になっている。最終楽章はフィナーレはフーガ風のところも交え、かなり手の込んだ構成だが、全体としてはちと不発気味かもしれない。調度リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」なんか同じように、どちらかといっえばしっりと終わる感じだが、これはこれでロマン派最終ステージの時期につくられた音楽らしい締めくくり方なのかもしれない。
 という訳で、まさにロマン派そのものな音楽なのだが、先も書いたとおりあまり重厚さシリアスさがなく、けっこうあっさりしていため、その淡泊さ故か聴いていて橋本國彦の交響曲を思い出してしまった。もっと、両者を聴き比べて見ればその違いは歴然だろうが....。
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マーラー 交響曲第10番(クック版)/ラトル&ボーンマス交響楽団

2008年08月03日 23時55分34秒 | マーラー+新ウィーン
私が最初に聴いたマーラーの10番のクック全曲版がこれ。確か80年代初頭の頃に発売され、ほぼラトルのデビュー盤といっていいようなアルバムだったとはずだ。当時のラトルはマーラーでいったら、カンタータ「嘆きの歌」だとか、シェーンベルクが編曲したブラームスのピアノ四重奏曲の管弦楽編曲版とかいった録音を次々に出す、ちょっとかわったイギリスの新鋭(当時まだ20代)といったところだった。この10番のクック全曲版も当時はモリスとオーマンディ、あとレヴィアンがあったくらいで、レアな珍品から一個の作品として評価されはじめた時期だったように思う。

 前にも書いたとおり、私はこの10番といえば第一楽章だけを先行した楽しんだせいか、それに続く四つの楽章はあまり魅力的に感じなかった。たとえば第一楽章が飛び抜けて魅力的な作品といったら第9番もそうだけれども、この10番の場合、第一楽章とそれ以降がどうも落差がありすぎるような気がしたのである。ともかく、スケルツォのような楽章が3つも続く構成というのがなんとなく座りが悪い気がしたし、最終楽章も第一楽章に呼応したアダージョ・フィナーレというには、ややとっちらかったような雑然としたものを感じさせて、どうも今一歩、マーラー晩年の音楽という印象が伝わってこない感じがしたのである。このラトル盤に続いて、シャイーとかザンテルリンクの指揮に演奏も聴いてみたけれど、大してイメージは変わらなかったし、演奏そのものを比較してもラトルの演奏はスリムでシャープなところが特徴だとは思ったものの、とりたてて優れたものだとも思えなかったのだ。

 さて、このところ去年に続いて、再び10番をあれこれ聴いているところで、第二楽章以降も大分なじんできたこともあり、このラトルとバーミンクガムによる演奏も、また以前とは違った印象があるのではないかと、20年ぶりくらいに聴いてみたのが、結論からいうと、やはりピンとこない。全体にスリムで清涼な感じなのはラトルらしいところなのかもしれないし、若い世代らしくこの曲にまつわる様々な文学的要素を洗い流して、古典的クラシック曲として整然と演奏しているのだろうが、全体にあっさりしすぎのような気がする。また、オケはさすがにいっぱいいっぱいな感じでもある。ともかく、全体にコレっていう売りがないという印象だ。しばらく前に彼はベルリンと同曲を再録したけれど、そっちはどうなっているのだろう?。
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マーラー 交響曲第10番(カーペンター版)/リットン&ダラス交響楽団

2008年07月26日 23時33分13秒 | マーラー+新ウィーン
マーラーの交響曲第10番の補筆全曲盤は前に書いた通りいくつもの種類があるのだけれど、最近はこの曲そのものがほぼ完全に古典化してきたこともあってか、CDとして登場するその版のヴァリエーションは、有名なクック版の他、フィーラー版、マゼッティ版、サマーレ/マッツーカ版、バルシャイ版とさながら百花繚乱のごとき様相を呈している。このカーペンター版もそのひとつだが、46年に着手して66年に完成したというから、意外にも補筆全曲盤のなかでは最も古いもののようだ。一般的にはクック版と対極にある補筆といわれており、その大胆な扱いはもはや編曲に近いという人もいるくらいで、たいてい「やり過ぎ」と酷評されている版でもある(笑)。

 実際、聴いてみるとさすがにこの手の違いに鈍感な私でも随所にオヤっと思わす異同があっておもしろい。クック版では聴けない対旋律、打楽器がいろいろなところで登場するし、メインとなる旋律がまるで違う楽器で奏でられたりするのだ。たとえば、第一楽章の例の破局を思わす不協和音のところなど背後から盛大にティンパニのどろどろが聴こえてきたりすると、一瞬ぎょっとするし、第二楽章ではスケルツォの主題に背後に聴いたこともないようなモチーフが木管であれこれ聴こえるのに加え、打楽器類もかなり賑々しい。第三楽章も同様だ。逆に第四楽章のスケルツォではこの楽章のシニカルさをいやおうなく強調していた打楽器が何故か聴こえてこなかったりする。またラストの一撃も使用する打楽器の指定が違うのか、えぐるような感じなく妙にあっさりしている。

 そんな訳でオヤっとか、アレっなどと思いながらけっこう楽しく聴けるのだが、この版、いや、この演奏というべきなのかもしれないが、ともかくこのCDの一番の聴きどころはなんといっても最終楽章ということになると思う。これまでクック版だといささか捉えどころがのない、あの練達なマーラーにしては先行した四つの楽章を最後でうまくまとめあぐねたような感がなくもなかったのだが、見事に最終楽章として機能しているように感じられるのだ。この版では、おそらくこの楽章でもっとも印象的な、あの曙光を思わす部分の壮麗さを思い切って拡大し、この楽章を「大地の歌」のそれではなくて、明らかに「復活」の最終楽章の線でまとめているのである。

 この曲は例の第三楽章を聴くまでもなく、第二楽章以降、どういう訳か初期型マーラーに先祖返りしているようなところが随所にあり、ならばラストは「復活」風にまとめるが筋....とカーペンターが考えたのどうかはしらないが、その線でうまくまとまったと思う。実際、私がこれほど10番の最終楽章が楽しめたのは、この演奏が初めてといってもいいくらいなのだ。もっとも、あまりロマンティックな壮麗さに傾きすぎて、聴いているとなんだかスペクタクル映画のエンドタイトルでもみているような気もなってしまうのだが(「インディペンデンス・デイ」を思い出した-笑)。

 ちなみに演奏はリットンとダラス響で、このコンビは「復活」を聴いたこともあるが、あの時と同様、妙にあっけらかんとした演奏だ。もうすこしどっかにとっかかりが欲しいようなところもあるが、カーペンター版を楽しむにはまずは不足はない演奏だと思う。あと、録音だがレーベルがデロスだからして、広大な音場感とダイナミックレンジ、重量感ある低音といった、テラーク的を更に深々とさせたような、かなりの優秀録音になっているのもポイントが高い。
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マーラー 交響詩「葬礼」/ブーレーズ&シカゴ交響楽団

2007年11月28日 23時36分12秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの交響曲第1番は元々交響詩として構想され作曲された。現在時折演奏される「花の章」は同曲が交響詩から交響曲にシェイプされるプロセスで削除されたものだが、交響詩だった頃のスコアも残っていて、CD化されたりもしている。しばらく前に取り上げたハマル&パンノンPOの演奏などはその例だけれど、それではマーラーが第1番の時の経験から、その後の作曲活動は交響曲のみに邁進したのかといえば、どうもそうでもないらしく、実は続く交響曲第2番の方も交響詩に色目を使っていたようだ。このアルバムに収録された交響詩「葬礼」は、その後交響曲第2番の第1楽章となる音楽であるが、当初はこうして交響詩として発表されたのである。

 音楽の基本的なところは、交響曲第2番の第1楽章とそれほど変わりはない。私のようなロック・ファン出身の人間からすると、ここまで出来ていれば音楽的にはほぼ同一という感じてしまうのだが、クラシックの作曲家といのはこのあたりまで完成させても、ほぼ骨格が出来たという程度のものなのだろう。ここから更なるディテールの磨き上げやアンサンブルの精査などを思う存分、納得するまでやったところで完成と呼ぶのだ。改めて凄い世界だとは思う。ただ、第1番の交響詩版と交響曲版の違いはそれほどでもなかったけれど、こちらはかなりぱっと聴きでも「おや」と思う部分がけっこうある。それは主に交響曲版にはあって、ここにはない音がけっこうあということなのだが、全般に金管の出番が少なく、オーソドックスな弦主体のバランスで進んでいく....という感じである。だから、けっこうワーグナーとかブラームスなんかに近いようなサウンドになったりもする。

 演奏はブーレーズとシカゴ交響楽団で録音は1999年、一応メインはリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」だが、どちらかといわずともブーレーズがグラムフォンで手がけたマーラー選集(全集?)の副産物として考えた方がすっきりとすると思う。この時期のブーレーズは、かつてのようなギリギリと締め上げ、かつ怜悧な演奏から、いく分リラックスした、ナチュラルな音楽が変貌したように思うが、この演奏もまさにそういう印象である(ホール・トーンをたっぷりと取り入れたナチュラルな録音のせいもあるだろうが)。ただ、1楽章で完結する交響詩として演奏するならば、むしろもっとドラマチックに演奏するやり方もあるもあるのではないかと思うが、この場合、オリジナル・スコアが地味なのだから仕方ないということなのかもしれない。そう思うと、単一の交響詩として演奏するには、むしろ完成した交響曲第2番の第1楽章の方が相応しいということなってしまうのは、皮肉なものだ。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第2番/ラサール弦楽四重奏団

2007年11月11日 21時38分16秒 | マーラー+新ウィーン
 新ウィーン弦楽四重奏団の演奏をレビュウしたのが、真夏の8月だったからずいぶんと間があいてしまったが、忘れていた訳ではなくて、ウォークマンにはしっかりと入っていた折りをみては聴いていたのだが、やはりシェーンベルクの無調期の作品ともなると、そうやすやすとBGMを聴くような訳にはいかず、このラサールの演奏についても、どうもまとまった印象がもてないでいたのだが、一応気がついたところだけでも書いておこうと思う。なにしろ、いろいろな音楽を聴いているせいで、すこし余所の音楽に目を向けると、今までのは置いきぼりとなるのは、私が音楽を聴いている上で、ありがちなことだし、そもそもシェーンベルクやバルトークの弦楽四重奏曲というのは、いつもそうして道半ばにして挫折してしまうのである(笑)。

 さて、ラサールの演奏だが、第1楽章のブラームスの風なところは、けっこうスリムであっさりと流しているという感じ。このあたり新ウィーン弦楽四重奏団はかなりこってり歌っていたような気がするのだが、さすがにラサールはこの曲の近未来的なところに着目しているせいか、そのあたりはロマン派風という記号ですませているというところだと思う。一方、室内交響曲風な第2楽章はラサールの面目躍如という感じで、錯綜する楽想をよく交通整理して、シャープでスピード感あふれるに表現になっている、トリオとの対比も明確だ。ソプラノが入る後半の2つ楽章は、新ウィーンのニューロティックで退廃的な雰囲気と比べるとマーガレット・プライスのソプラノに透明感があるせいか、かなりクリアで直線的な雰囲気がある。世紀末的な雰囲気という点ではややあっさりしている感じがないでもない。ただ、長い最終楽章では、ソプラノが出てくるまでの、意味ありげな、科学とオカルトが入り混じったような、新ウィーン楽派特有の雰囲気をドラマチックに表現していて中々の仕上がりである。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第2番/新ウィーン弦楽四重奏団

2007年08月07日 23時26分01秒 | マーラー+新ウィーン
 弦楽四重奏曲の第2番は、あの晦渋な第1番に比べると、親しみやすい作品とまではいかないとしても、少なくとも第1番よりは、構成される4つの楽章はそれなりに特徴がはっきりとしているし(後半のふたつの楽章は一種の歌曲みたいな様相を呈していることはいわずもがな)、全体にメリハリというか、明快な起伏のようなものがあって、わかりやすい作品になっていると思う。また、この作品はシェーンベルクが後期ロマン派的音楽から、無調へ至る過渡期の作品としても有名だが、そうした視点で聴いても、様々な要素があまり混濁せず明確に感じとれるあたりも、また分かりやすい印象を与えていると思う。

 第1楽章はごくごく普通のブラームス的にロマン派風なテーマに始まるが、この部分などこの作品の前作に当たる室内交響曲などより、よほど保守的な雰囲気が濃厚なのはおもしろい。ただし、曲が静まった後に登場する第2主題は、早くもいかにも新ウィーンっぽいニューロティックな雰囲気を漂わせていて、いかにも過渡期な風情である。
 第2楽章はスケルツォだが、こちらは室内交響曲に近い、切れ切れのモチーフが一見雑然と並んでいるような、ややアブストラクトな音作りになっている。かなり無調に近づいた感じだが、トリオでは再びロマン派的な風情を漂わせたりしもして、ここでも過去と現在と未来を行き交う音楽になっているように思う。

 後半のふたつの楽章は、声楽付きのユニークなたたずまいのパートになっている。第3楽章は第1楽章の主題を暗示しつつ変奏曲形式で進んでいくようたが、既にちょっと前の「5つのオーケストラ付き歌曲」とは明らかに違った、その後の「期待」などと共通する、すえたような香りを漂わせた世紀末を感じさせる歌曲になっている。最終楽章は10分を超える長大ななもので、多分、ほぼ完全な無調音楽になっていると思う。なんでもソナタ形式でつくられているらしいが、無調ともなると、主題だ、展開部だのを識別するのは、さすがに私のような素人にはなかなか難しい。が、幽玄な雰囲気を漂わせた妖しげなムードはそれだけでも印象的である。という訳で、少なくとも私にとっては、一番より「馴染める音楽」ではある。
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マーラー交響曲第3番/バーンスタイン&ニューヨークPO 他

2007年08月03日 22時27分21秒 | マーラー+新ウィーン
 一昨年の今頃にマーラーの交響曲第3番をした後、思い立ってバーンスタンの旧全集を購入した時、まっさきに聴いたのがこの第3番だった。その時にも書いたのだが、マーラーの第3番といえば、「絵に描いたような夏の風景を感じさせる曲」で、バーンスタインとニューヨーク・フィルの演奏は、この曲に潜む絵画性のようなものを際だたせた演奏で、時に曲があまりにも巨大過ぎるせいで、こちらが迷子になってしまいそうなこの曲を、とても分かりやすいものにしていたと思う。私がこの演奏で曲に慣れ親しんだということも無視できないけれど、久しぶりにCDで聴いて、「これだ、これだ」と思ったのも故なきこととはいえないと思う。ただし、そうした素晴らしい演奏ではあるのだが、ひとつだけ気になることがあったである、他ならぬ音質である。

 実はあの時も書いたのだが、私が聴いたレコードは、ほとんど異常なほどハイ上がりな音質で、もうほとんどサイケデリックといいたいようなサウンドが聴こえたものだが、CDでは今日的なバランスに近づけたリマスタリングを施したようで、耳あたりのよい、自然な音質はそれなりに良かったのだが、やはり昔聴いたあのギラギラした音で聴きたいという気持ちも捨てがたくあり、一ヶ月くらい前だったか、突然思い立って、この曲の自家製リマスタリングを施してみた。詳しくはかかないが、この音のヌルさのようなものは、ひとつの原因として、ヒスノイズを消したためだろうから、逆云えばヒスノイズが盛大に聴こえるようになればいいのだろうと(素人はこれでいいのだ-笑)、イコライザ関連であれこれ調整して、それらしいポイントを探すのに数時間、それに多少音圧をアップさせたものをCDに焼いて、出来上がりである。

 うーむ、万全とはいえないけれど、我ながら、レコードで聴いていた音質にかなり近づいたと思う。この時期のニューヨーク・フィルの大味だが、やけにパワフルなアメリカン・サウンドが甦ったという感じだ。やはりCDはボストン交響楽団のような音だったと改めて思ったほどだった。以来、これをWalkmanに入れて、良く聴いている、仕事で千葉県中を駆けめぐっていることは、何度も書いているけれど、田舎に行って、天の高い風景が見える場所にくると、なにげにこれを聴いたりしている。そもそも、そういう風景がよく似合う音楽だし、演奏だと思う。
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マーラー 交響曲第10番/シャイー&ベルリン放送交響楽団

2007年06月30日 19時01分32秒 | マーラー+新ウィーン
 シャイーは80年代後半から約15年かけて、アムスとマーラーの交響曲全集を完成しているが、確かこれをそれに先だったものだった(86年収録)。マーラーのまとめて録音するにあたって、露払い的に10番を録音するというパターンはラトルもそうだったけれど、「マーラーの作品」と胸を張って主張するにはいくつかに留保つく作品であるが故に、テスト的に演奏してみるということもあるだろうし、先人の手垢のついていない作品を自分なりの解釈ほ施してみたいという意図もあったのだろうと思う。ともあれ、この時期、こういったマーラーの10番を先発に起用するというのは、明らかに新しい世代の指揮者の柔軟な思考を感じさせたものだった。

 さて、演奏はこの時点でその後のマーラー演奏と共通するものがしっかり出来上がっていると思う。遅めのテンポで瑞々しく旋律を歌い、あまり情念的なところに深入りすることなく、全体に透明度の高いマーラーである。したがって、非常に情念的な第1楽章はやや食い足りないし、時に熱狂的な中間の3つの楽章はメリハリという点であっさりしているかな....とも思う。ただし、浄化されるような最終楽章の清澄な雰囲気と音楽の拡がりは素晴らしく、シャイーの面目躍如といったところだろう。この曲は大方第1楽章に力点を置いた演奏が多いけれど、この演奏は明らかに最終楽章をクライマックスにしていると思う。
 ちなみに録音もその後のパターンとほぼ同様な、ホール・トーンを巧みに取り入れ、ほんの少し角のとれた音調でまとめた90年代以降のデッカ・パターンである。一見、淡々と進んでいくが、第4楽章~第5楽章の大太鼓の音はもテラーク顔負けの凄い迫力である。
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マーラー 交響曲第10番/ザンテルリンク&ベルリン交響楽団

2007年06月29日 21時55分14秒 | マーラー+新ウィーン
 ザンテルリンクがベルリン響を振った79年の演奏で、確かクック全曲盤としては、オーマンディ、モリスに次ぐ比較的早い時期のものだと思われる(私がクック全曲盤を最初にCDで購入したのがこれだった....というか当初これしかなかったような気がする)。の私はモリス盤は聴いたことがないのだけれど、良くも悪しくも「ワールドプレミア的な演奏」だったオーマンディと比べると、おそらく作品に対する解釈に確固としたものがあったのだろう、マーラー的な雰囲気はよく出てるし、演奏自体も非常に入念で、さすがに年季の入った東欧の指揮者違うという感じが強くするパフォーマンスになっている。とにかく重厚で辛口なマーラーであり、昨日とりあげたシャイーとはあらゆる意味で対照的といっていいかもしれない。

 例えば、第1楽章の中盤で突如大音響で現れる不協和音の部分など、あの場面の青天の霹靂的なショッキングさは、数あるクック全曲盤の中でも随一のドラマチックさといえる。ちょっとタメた感じでジャーンとあの不協和音が登場する様は怖くなるほどだ(これに比べるとオーマンディはさらりと流しているのがよくわかる)。また、中間の3つの楽章も鋭角的なリズム、シニカルな雰囲気などを、意図的に増幅しているようでもあり、ある意味で非常にわかりやすい演奏にもなっている。また、第4楽章の結末から何度か登場する、これまた衝撃的な大太鼓のショットのえぐるような感じは前述の不協和音の部分と同様、数ある全曲盤の中でも非常にドラマチックな効果を上げている。
 ともあれ、全体にリズムが立ち、鋭いアクセントが印象的な演奏で、オーマンディのそれにあったプレーンであるが故の物足りなさをそのまま解消したような趣があり、個人的には気に入っている演奏のひとつとなっている。
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シェーンベルク 室内交響曲第1番 聴き比べ

2007年06月27日 22時46分41秒 | マーラー+新ウィーン
・メータ&ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
 メータとロスフィル最初期(67年)の録音のひとつだと思う。60年代中盤にこの曲を持ち出してくるあたり、次世代を担う新世代指揮者としての意気込みを感じさせる。演奏もシェルヘンの重厚さ比べると、とにかく若く溌剌としていて、4度のテーマの見え隠れ具合なども実に巧緻だし、なによりリズムがシャープでさっそうとしているのには驚いてしまう。他の演奏陣によるもっと新しい演奏を聴くと、実はこの演奏ですら腰が重いところすら感じでしまったりもするのだが、67年という時代を考えれば、この演奏は相当に斬新でフレッシュなものであったことは想像に難くないところだ。

・アサートン指揮ロンドン・シンフォニエッタ
 73年の収録で、基本的にはこの曲以降のシェーンベルクの音楽の展開を予見させるようなところをすくい上げたというか、早い話、現代音楽的なところを全面に出した「先を見越した演奏」である。ただし、感触としては純イギリス・コンビらしく中庸で質実な演奏という感じで、シェルヘンのようなウィーン世紀末的な香りや、メータのモダンなスウィング感といいたいようなノリがある訳でもなく、ある意味、没個性、地味な演奏と形容できなくもない。ただし、この曲の「シニカルな情感をベースにした実験的な室内楽」みたいな風情は、逆にこうした無愛想な演奏だからこそ、よく出ているようにも思える。私は本演奏でこの曲を親しんだせいもあるが、リズムやテンポ、表情など実はこの演奏が一番違和感がない。個人的にはこの曲のひとつの基準となっている演奏だ。

・ブーレーズ指揮BBC交響楽団
 久々に聴いた演奏、なにしろ全曲19分で終わるから、早いテンポで壮絶に進んでいくような演奏だと予想していたが、予想に反して早いは早いが角張ったところがない流麗といいたいようなシンフォニックな演奏だった(メータとは違った意味のスウィング感がある)。まぁ、ブーレーズといっても79年の収録だから、クリーブランドと「春の祭典」を録音していた時期に比べれば、戦闘的要素も大分丸くなっていたのかもしれない。ただ、さすがはブーレーズ、いや、やはりブーレーズだったというべきなのか、音楽的には感覚的な音色美みたいなところはさすがだが、この曲の木で鼻をくくるような気むずかしさ、過剰な情報量、世紀末的なムードはあまりない。
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