井沢元彦の「言霊」「怨霊」「穢れ」といったキーワードでもって、過去から現代に至る日本を解読していく作業はとてもおもろしく興味深い。彼のこうした主張を知ったのは数年前のことで、単発や本や対談集はあれこれと読んでいたが、去年あたりからその本流たる「逆説の日本史」を読み始め、先ほど第4巻を読み終えたところだ。主に通勤途中は夜ベットで読んだりしているだが、週刊誌に連載されたものをまとめただけあって、あまり学術的でなく、肩のこらない文章で、くどいほど平易に日本史を解読しているがいい。
例えば、現代に生きる我々が「そんなこと云って、縁起でもない」などと何気なく使っている言葉というか考え方に、言霊という日本独自の文化が流れていることを、実に説得力ある事例や比喩を使って説明しているのだが、これが無類におもしろいし、膝を打つような推論なのである。穢れというキーワードもおもしろい、どうして自分以外の人が愛用が使った箸とか茶碗は洗っても、使う気がしないのか、私はこれが昔から不思議で仕方なかったりだが、物理的な汚れではなく「穢れ」というキーワードで説明すべき問題なのだと、彼の著作で知った時はやけに感心したものだった。
この第4巻では、国が軍隊を持たない平安時代を解析している、おもしろいのはそれを井沢元彦が盛んに現代との共通点を上げるところで、これもまた見事に納得させられる。確かに「平和、平和」とお題目のようにとなえている、ある種の政治家は言霊の呪縛にとりつかれていると思ったし、現代の清潔志向の強い人達の深層には、安寧な時代に生きる人たちの余裕から、再び穢れを忌避する精神が強まった結果なのではないかと喝破するあたりは、納得しまくってしまった。
例えば、現代に生きる我々が「そんなこと云って、縁起でもない」などと何気なく使っている言葉というか考え方に、言霊という日本独自の文化が流れていることを、実に説得力ある事例や比喩を使って説明しているのだが、これが無類におもしろいし、膝を打つような推論なのである。穢れというキーワードもおもしろい、どうして自分以外の人が愛用が使った箸とか茶碗は洗っても、使う気がしないのか、私はこれが昔から不思議で仕方なかったりだが、物理的な汚れではなく「穢れ」というキーワードで説明すべき問題なのだと、彼の著作で知った時はやけに感心したものだった。
この第4巻では、国が軍隊を持たない平安時代を解析している、おもしろいのはそれを井沢元彦が盛んに現代との共通点を上げるところで、これもまた見事に納得させられる。確かに「平和、平和」とお題目のようにとなえている、ある種の政治家は言霊の呪縛にとりつかれていると思ったし、現代の清潔志向の強い人達の深層には、安寧な時代に生きる人たちの余裕から、再び穢れを忌避する精神が強まった結果なのではないかと喝破するあたりは、納得しまくってしまった。
