孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宇宙・神・愛を説く精神世界・真理に<特別>があってはいけないのです。

2015年10月14日 | Weblog
特別な不平不満も自己満足も無い「普通の意識」が満足していることにもなります。

ちなみに不平不満を持っているときは普通とは異なります。
また特別なおまけで自己満足していれば普通とは言えません。

そして私が暇で退屈しているときは普通であっても、その内に変化刺激が欲しくてパチンコに行くことになれば、
その暇で退屈していることが不平不満に変わったことになります。

その暇で退屈している普通の時間に家族や孫たちの心配事を私が意識すると普通ではなくなります。

しかし私はこの世人間関係や家族・人様のことは「どうでもいい」ことになっていますから、何ら気にすることが無くて(執着することが無くて)そのままの普通意識でいられます。

然るにそれも家族や孫たちと離れて平然と暮らしているからです。
だから家族と離れている状況が「ありがたい」ことにも思えているのです。

そして一日の多くがブログを意識している時間になっています。

しかも私の中にある真実事実を思い起こして文書にするだけですから精神的には楽ですし、この世で稀なる実践真理を書いているだけに(その満足感からして)何故か嬉しくもあり楽しそうで面白そうな感覚にもなっています。

だからか、以前よもりパチンコが面白くなくなり、ギャオの無料映画ドラマもどんどん見る時間が減っていますし、時たま聴いていたNHKラジオもOFFにしたままです。

と言うことからして私には「特別」がありません。

またそれだけに「精神が安定」したままに暮らせるのです。

ただ時たまに必然ご縁からして「特別なおまけ=変化刺激」が付いてくることがありますが、それが一時一回限りの「おまけ」だけに執着にはなりません。

それを言い換えると宇宙・神・愛を説く精神世界や真理に<特別>があってはいけないのです。

まして信じるか否かの矛盾、飴とムチの使い分け、ご褒美と罰の矛盾、善悪・優劣・損得の差・矛盾があれば、それは欲絡みの邪な輩が説く不完全な精神世界になるのです。

然るに「特別」を求めることが欲絡みの偽善になるのです。

だから精神の安定とならずに偽善の積み重ね上塗りになるだけです。

先人・賢人・学者先生・聖職者・超能力者や私たちは「謙虚に生きる」ことを忘れています。

2015年10月14日 | Weblog
神仏霊魂の世界・スピリチュアル関係を説く者には人様に与える影響が大きいだけに「謙虚さ」が絶対に必要です。

ちなみに過去の釈迦やイエスの足下に人が集まったことからして、その不確かな矛盾のある教えに従うことを促したからには謙虚さが無かったことは事実になります。

また私とご縁があった霊能者も耕栄さんも当初の頃は謙虚さが見受けられていたようだが、次第に多くの人に囲まれて壇上に上がることになったり、また摩訶不思議商品を物売りに到るようでは謙虚さが無くなっていたことになります。

また伊勢白山道なる者も謙虚さを言いながらも何かと目立ちたがっているし、見えない世界の信じるか否かの不確かなことを確かなことのように言っているからには謙虚ではありません。

然るに私も謙虚さに欠けるかもしれませんが、しかし頑張らない・欲張らない・見栄張らないで、余計なことに無理しなければ「楽ラク」に生きていけることは事実です。

その「楽に生きる」のも謙虚だから出来ることですから、
それを神仏霊魂の世界や先祖供養とかスピリチュアル関係とか実践真理などを「説いている」と言うほどのことでもなくて、至極当然の当たり前のことになります。

然るに謙虚だから素朴にもなるし、質素倹約にもなるし、素直真面目にもなるし、そして頑張らない・欲張らない・見栄張らないで・余計なことに無理しなくなるのも当たり前のことになります。

その謙虚になる当たり前のことが出来ていないからこの世人間関係がヘンテコになっているだけです。
いとも簡単な理屈・道理です。

然るに己が謙虚ならば余計なことに手出し・足出し・口出ししないで成り行きに任せることにもなります。
然るに人様のことに立ち入るような余計なことも、また人様の前に立ちはだかって邪魔をするような無駄なこともしません。

まして自惚れ慢心して私は正しいと主張・堅持して守り闘い「争う」ことにもなりませんから、人様に害を成すことも無く、平常心のままに過ごせます。

だから自分さえ良ければの個人意識丸出しでもって生きていても己が謙虚に生きてさえいれば心穏やかにしてそれで十分納得できる人間人生になります。

然るに神様や仏様や先祖様や超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどの他力に<関係なく>謙虚なままに平然と生きていけます。

またその謙虚さからして不平不満と自己満足の苦楽・喜怒哀楽を味わうことにもならずにして、静かで温和な精神の安定した日々を過ごせます。

とにかく、何がどうであれ、あれこれと難しく学び知らなくても、また気付き省みなくても、また納得確信の悟りに至らなくても、また独自独歩の自力自信精神力に関係なく、
ただ<謙虚>に生きていれば人間本来の価値・真価を十分に味わいながら生きていけるのです。

然るに自分さえ良ければの個人意識を無くすることが出来ないからには<謙虚に生きる>しかありません。