このブログでは人間意識・個人意識の不完全さ、然るに矛盾・偽善を根堀り葉堀り事細かく書いていますが、読者の中には違和感・否定反発したくなる事柄も多いと思っています。
何はともあれ大よりも小に元の原因がありますから、然るに根堀り葉堀り事細かく突き詰めて書いているのです。
その小が不平不満なのです。
然るに「此れではダメ」と思った些細なことから始まっているのです。
だから不平不満が諸悪の根源とも書いているのです。
しかも皆さんの中でまだ気付いていない人、納得できていない人にあるのが、不完全意識の者が何を成せども同じ不完全で矛盾があり偽善が隠れていると言う事実に納得できていないと、どうしても違和感なり否定的にもなるのです。
然るに肝心要のことに理解不足なのです。
しかも食って寝て糞をしながらにして生きていること以外は特別なことになり、それを成すことで自己満足になっている事実にも気づいていないと言うのか、それとも気付こうとしていないのかもしれませんが、
とにかく誰もが自分に都合が悪いことは否定反発したがるものです。
ところがそんな事はお構いなしに深く掘り下げて遠慮なく書くから尚更に素直に納得理解したがらないというような変な具合、自己正当化して私は正しいと思いたがっている人も多いと思っています。
しかもブログの中の自分に都合がいいところだけをつまみ出して納得するも他のことは見て見ぬ振りをするで多くを見落としたり、しかもすべてはひとつに繋がっているのに端っこ一部分だけで知ったかぶりするから、そこで矛盾のある頓珍漢な理解になっていることに気付かないで納得している人も多いと思います。
だからヒトラーやオウム教なら素直に納得できても釈迦やイエスの類やガンジーやマザーテレサとなると違和感や否定的にもなるようです。
とにかく「此れではダメ」と思った小さなこと・小さな欲からして始まり、その理解者・仲間・協賛者が増えることで次第に大掛かりになってきたことの史実・現実に気付いていないのです。
そして「欲」から始まったことは不完全で矛盾し偽善の結果にもなるのです。
だから何ひとつ完全解決する事無く中途半端な結果のままが繰り返されながらにして推移するのです。
然るにそれが現在です。
そこで「楽しく」生きることよりも=人間の基本である=食って寝て糞をしながらにして=「楽ラク」に生きることに納得確信すれば、そこで頑張る事無く欲張る事無く見栄張る事も無くなり、然るに不平不満が出難い生き方になり、それだけ苦楽・喜怒哀楽で生きることにならずにして=精神の安定=となるのです。
何はともあれ大よりも小に元の原因がありますから、然るに根堀り葉堀り事細かく突き詰めて書いているのです。
その小が不平不満なのです。
然るに「此れではダメ」と思った些細なことから始まっているのです。
だから不平不満が諸悪の根源とも書いているのです。
しかも皆さんの中でまだ気付いていない人、納得できていない人にあるのが、不完全意識の者が何を成せども同じ不完全で矛盾があり偽善が隠れていると言う事実に納得できていないと、どうしても違和感なり否定的にもなるのです。
然るに肝心要のことに理解不足なのです。
しかも食って寝て糞をしながらにして生きていること以外は特別なことになり、それを成すことで自己満足になっている事実にも気づいていないと言うのか、それとも気付こうとしていないのかもしれませんが、
とにかく誰もが自分に都合が悪いことは否定反発したがるものです。
ところがそんな事はお構いなしに深く掘り下げて遠慮なく書くから尚更に素直に納得理解したがらないというような変な具合、自己正当化して私は正しいと思いたがっている人も多いと思っています。
しかもブログの中の自分に都合がいいところだけをつまみ出して納得するも他のことは見て見ぬ振りをするで多くを見落としたり、しかもすべてはひとつに繋がっているのに端っこ一部分だけで知ったかぶりするから、そこで矛盾のある頓珍漢な理解になっていることに気付かないで納得している人も多いと思います。
だからヒトラーやオウム教なら素直に納得できても釈迦やイエスの類やガンジーやマザーテレサとなると違和感や否定的にもなるようです。
とにかく「此れではダメ」と思った小さなこと・小さな欲からして始まり、その理解者・仲間・協賛者が増えることで次第に大掛かりになってきたことの史実・現実に気付いていないのです。
そして「欲」から始まったことは不完全で矛盾し偽善の結果にもなるのです。
だから何ひとつ完全解決する事無く中途半端な結果のままが繰り返されながらにして推移するのです。
然るにそれが現在です。
そこで「楽しく」生きることよりも=人間の基本である=食って寝て糞をしながらにして=「楽ラク」に生きることに納得確信すれば、そこで頑張る事無く欲張る事無く見栄張る事も無くなり、然るに不平不満が出難い生き方になり、それだけ苦楽・喜怒哀楽で生きることにならずにして=精神の安定=となるのです。