孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

このブログの肝心要のことに理解不足だと真実が事実ではなくなります。

2015年10月06日 | Weblog
このブログでは人間意識・個人意識の不完全さ、然るに矛盾・偽善を根堀り葉堀り事細かく書いていますが、読者の中には違和感・否定反発したくなる事柄も多いと思っています。

何はともあれ大よりも小に元の原因がありますから、然るに根堀り葉堀り事細かく突き詰めて書いているのです。
その小が不平不満なのです。

然るに「此れではダメ」と思った些細なことから始まっているのです。
だから不平不満が諸悪の根源とも書いているのです。

しかも皆さんの中でまだ気付いていない人、納得できていない人にあるのが、不完全意識の者が何を成せども同じ不完全で矛盾があり偽善が隠れていると言う事実に納得できていないと、どうしても違和感なり否定的にもなるのです。

然るに肝心要のことに理解不足なのです。

しかも食って寝て糞をしながらにして生きていること以外は特別なことになり、それを成すことで自己満足になっている事実にも気づいていないと言うのか、それとも気付こうとしていないのかもしれませんが、

とにかく誰もが自分に都合が悪いことは否定反発したがるものです。
ところがそんな事はお構いなしに深く掘り下げて遠慮なく書くから尚更に素直に納得理解したがらないというような変な具合、自己正当化して私は正しいと思いたがっている人も多いと思っています。

しかもブログの中の自分に都合がいいところだけをつまみ出して納得するも他のことは見て見ぬ振りをするで多くを見落としたり、しかもすべてはひとつに繋がっているのに端っこ一部分だけで知ったかぶりするから、そこで矛盾のある頓珍漢な理解になっていることに気付かないで納得している人も多いと思います。

だからヒトラーやオウム教なら素直に納得できても釈迦やイエスの類やガンジーやマザーテレサとなると違和感や否定的にもなるようです。

とにかく「此れではダメ」と思った小さなこと・小さな欲からして始まり、その理解者・仲間・協賛者が増えることで次第に大掛かりになってきたことの史実・現実に気付いていないのです。

そして「欲」から始まったことは不完全で矛盾し偽善の結果にもなるのです。
だから何ひとつ完全解決する事無く中途半端な結果のままが繰り返されながらにして推移するのです。

然るにそれが現在です。

そこで「楽しく」生きることよりも=人間の基本である=食って寝て糞をしながらにして=「楽ラク」に生きることに納得確信すれば、そこで頑張る事無く欲張る事無く見栄張る事も無くなり、然るに不平不満が出難い生き方になり、それだけ苦楽・喜怒哀楽で生きることにならずにして=精神の安定=となるのです。

矛盾・苦楽を味合わない生活様式を自らが見出して実践すれば万事が納得OKになります。

2015年10月06日 | Weblog
大昔から近年まで、少しでも生活が楽になりたいと、頑張っていました。
ところが生活が楽になったのに、それだけではダメだとして、少しでも楽しく過ごしたいと欲張ることになったのが現在も続いています。

すなわち食って寝て糞をしながらにして生きていることでは満足できずにそれ以上の特別を求めることになったのです。

それを裏返すと生きているだけでは面白くないからと、それ以上の特別な形・変化刺激を欲しがっていることであり、その裏を深く掘り下げれば人間本来の「生きている」ことの真実・真価を真摯に味わっていないから、他ごとに摩り替えているから、然るに<死んだも同然>の生き様と言えるのです。

すなわち自然界の如くの自然体・あるがままに生きることを味わえていないから、代替の変化刺激の苦楽でもって生きていることを確かめているような「自傷行為」が如くの生き様になっているのです。

だから精神的にも肉体的にも疲れるのです。

しかも自己満足・自惚れ慢心からしてそのことに気付けないでいるのです。
だから一息ついてホッとするのがその証拠です。

だから仮初の癒しを求めることにもなるのです。
ところが自傷行為の如くに(サウナやトレーニングなどで)身体を痛め付けたあとの疲労感と開放感で心身が癒されたと錯覚している人も多くいます。

そんな事とはつい知らずに何とか頑張らなければ損な立場になる、欲張らなければ皆からほっとかれる、学識知識教養を身につけカッコよくしなければ見下げられると思って見栄張ることにもなっています。

だから衣食住にも特別が求められ、学識知識教養や儀礼儀式や仕事職業・個性役柄にも特別が愛でられるようになりました。

然るに私も例外ではありませんから頑張り欲張り見栄張りしていました。
ところが有頂天の真っ最中にふと=このままで本当に大丈夫なのか?と直感的に感じてそこで一旦止まることにしたら、ものの見事に下降線をたどることになり二度と駆け上がることが出来ない状況になりましたので、そのままにして自主廃業寸前にまでなりました。
そこで遊び半分に購入した過疎地の廃屋を修繕修理するために一泊、二泊、三泊となり、それが今では永住することになったのが現在であり、このブログでもあります。

そして食って寝て糞をしているだけのような生き様の中に何かと気付き見出したことを書き続けているうちに現在の内容にもなりました。

すなわち自己拡大を味わった上で素朴に生きる自己縮小を味わうことで世間的な諸々の違和感・謎解きが進んだのです。

と言うことは過去の自己拡大と成り行きの自己縮小が原因のその結果からして現在があるのですから、その途中過程の中の摩訶不思議の世界・神仏霊魂や想念の世界や完全真理に関わっていなくても「私の意識が原因のその結果として」仕組まれながらにして現在の状況になっていたことになります。

と言うことは巷の摩訶不思議の世界や神仏霊魂や想念の世界や完全真理に関わってそれらの理解・謎解き・知識を深めて単に卒業しただけで終わったのです。

もっとハッキリ言えば、それら不完全な矛盾・偽善のある諸々に惑わされて関わったことは、結果的に言えば余計な寄り道・回り道したことになります。

しかしそれらがお陰でこの世に稀なるブログが書けるようになったのですから無駄ではなかったのです。

何はともあれ=この世の苦楽・矛盾を確り味わった上で、その苦楽の無い小さな生き様にして=穏やかな「精神の安定」=を心からして味わうことになれば、そこで人間として生きていく価値が見出せるのです。

だから諸々の精神世界に関係なく、自らが苦楽を味合わないで過ごせる生活様式を見出してそれを実践すればいいだけのことです。

然るにその為の=根堀り葉堀り書き続けた=この世に稀なる=ブログになっています。