孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

食って寝て糞をしながら生きているだけで何の役割を果たしているのでしょうか、それが「意識」にあります。

2011年11月13日 | Weblog
人間は意識で生きている関係から、その意識で学び知ったり思い考え思考錯誤したり葛藤したりしながら精神体や感情体や肉体を使う事になりますが、先ずは精神を使いそれを感情で表すために肉体を使う順序になります。
だからいつの世も精神面が重要視されているわけです。
ただ皆が(集合意識が)精神面を重要視していないから困ったことが繰り返されているのです。

ところで宇宙・万物にそれぞれの役割使命がありますから人間も同じです。
だから微生物は微生物だけが成せる役割を普通に果たして使命を終えています。
だからアリはアリの役割を果たして使命を終えています。
その使命を終えると無になるのではなくてその意識・命は元から実在し続けていますから、その微生物もアリも元々の意識・命が進化して形作られたのは人間の進化と同じですから、人間だけが進化してきたのでありません。

そして人間の役割使命にあるのもアリと同じで、何とかしながら食って寝て糞をして生きていることでお役を果たしています。
ただ人間だけは生きている事に価値観を見出そうと良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断する習性を持って生まれてきましたから、他の万物とは差のある位置に属していると勝手に思っています。
だから神を特別に思いアリを劣る生物と見ていますし、同じ人間同士でも比較判断し合っています。

ところで人間が食って寝て糞をしながら生きているだけで何で役割を果たしていることになるのでしょうか。
その答えと言うべきものが先程の「人間は意識で生きている」ことにあります。
だから生きながらにして、そのお互い様とお蔭さまの関係でその役割を果たしながら、この世の全てのものと接し触れ合うことから、その全ての意識・命に関する事に気付き学び知りながら、人間の精神面・意識を充実させて「進化していく」ことが使命にあるのです。この世の見せ掛けの形を進化させることでは無いのです。

だから生きている中でアリを見る事になったときに、そのアリほどつまらないものはいないと思うこともあるでしょうし、そのアリの役割・働きを見て関心を寄せることになったりするでしょうから、その時々の思い考えが精神面・意識を使っていることからして、その「意識で生きている」ということが、その役割使命を果たすために生きている事につながるのです。
またそのアリに思いを寄せている当人を見た別人がその思いを勝手に巡らせる事になれば、アリを見ていた当人が知らない間に別人の意識に影響を与えたことになりますから、それも併せてお役を果たしていることになります。

だからそれがアリではなくして人間関係になっても同じです。
賢い子であれ悪たれであれ、機敏であれ鈍感であれ、商売上手であれ下手であれ、口達者であれ下手であれ、金持ちであれ貧乏であれ、それら見掛けに関わらず全てのことが共に学び合う関係になっていますから、そのすべてが「お蔭さま」であり「お互い様」の関係になるのです。

だから生まれたての赤ちゃんが親の愛情を知り、その親も産みの苦しみと子育ての喜びを知りますし、関わる周りの人に精神的感情的にも影響を与えていますから、それが生まれながらにして早くも赤ちゃんの役割を果たしていることになります。

また田舎で呑気に生きている人にも学びがあり、それをかいま見て判断する人にも学びがあります。
またゴミ屋敷で暮らしている人にも学びがあり、それを見て批評する人にもその学びがあります。
またホームレスやフリーターにもその学びがあり、それを見て判断する人にもその学びがあります。
だから当の本人が「知らない間に」人様に<お手本>を示している形になり、それが(人様の)お役に立っていることになります。
・・・本人が知らない間にお役に立っていることが「愛」なのです。
・・・だから皆さんも知らない間にその愛が出ているのです。

それも「生きて」いるからこその愛・役割になります。
だから子供であれ大人であれ老人であれ、男であれ女であれ中性であれ、健康であれ怪我人であれ病人であれ死に掛けていても、また五体不満足であれ健常者であれ、我がもの顔であれ、人思いであれ、田舎者であれ都会者であれ、社長であれ社員であれ、生産製造技術者・研究開発者・医科学者であれ、詐欺師やドロボウであれ殺人者であれ、テロや戦争犯罪人であれ、如何なる主義思想家であれ、救世主であれ聖者であれサタンであれ、この世の全ての形の中で何らかの学び合いになっていますから、それらに関わった人達は(自他共に)その役割を果たしていることにもなるのです。

それらの役割を果たすためにこの世に生まれてきたといっても過言ではありません。
そして皆がそれぞれの役割を果たしているのですから「差」はありません。
しかもお蔭さまとお互い様の関係になっているから調和の関係になっているのです。

ところが問題なのは人間だけが「良い悪い」で判断しているその一点だけです。
だから犯罪者が悪いばかりではありません、皆のお手本としてお役に立っている良い面もあるのです。
また善人ぶっていても裏陰で悪いこともしているのですから、皆がお互い様なのです。
またこの世に絶対善人や絶対悪人はいません、見える(一つの)「事実」があるだけです。

だからその良い悪いで判断しなければすべてが役割使命(愛)を当たり前に果たしているだけのことになるのです。
そして宇宙・万物が共存し共に進化している事実があるだけになります。
だからその進化に人間の意識・命が乗り遅れないようにと、宇宙・神の仕組みの必然から、この世で初の完全真理がこの世で説かれているのです。

自己拡大が原因で「過去ほど平穏」に思えますが、自己縮小は「過去ほど騒々しい」ことに気付くのです

2011年11月12日 | Weblog
「食って寝て糞をする」こと以外に必要なものがあるとしたらそれは特別になります。
だからその特別が無くても何ら支障ありません。
ところがその特別を必要とする人が居たことから、その必然から特別な形が作られたわけです。

今年の寒波が長く続いたことから必然で小型の格安な電子レンジを始めて購入しました。
そして簡単便利に暖め直しできることに満足していましたが、その便利さを知ってからはやたらと電子レンジを使うことが多くなりましたが、それも元々は無かったものですから、(それを言い換えれば)無ければ無くても普段とは変わらなかったのが事実になりますから、その特別が無くても差支えがなかった事になります。

同じように私がパチンコに行かなくても普段と変わらない生活が出来ます。
ところがパチンコの面白さを知っているだけにパチンコ屋が身近にあれば通うことにもなっています。
しかし本心から言えばパチンコ屋が無い方が、無ければないでそのままになるから、余計な事をしないで済むわけです。
しかしそれでもパチンコに執着するようになれば遠く離れた所まで無理に出かけていくことになるかもしれません。

それと同じく食べ歩きや温泉巡りや名所観光地や海外旅行にまで出かけることは特別意識の執着になります。
それでもそれが当たり前に思っている人は金銭を惜しまずに使ってやりたがりますから、その分だけの収入も確保しなければなりませんので、普通ではなく特別出費になる場合もあります。
そこで残業したりアルバイトやパートに出掛けて無理する事になったり、またそれが原因で普段より気疲れが増えてきたり、また生活費を切り詰めたりと不自然になりますが、しかしそれでも思うように行かなければその収入面での夫や妻や仕事に対する不満まで持ち出すかもしれません。
・・・人それぞれですが、それだけに人それぞれのレベルがありますから、結果的には似たような結果になります。

だからそれらが無くても普通に生活できるのに(欲を出して)苦労したり気まずい思いをしたり不満に思ったりしたことになります。
すなわちそれらが「無かった」ほうが平穏に生活できていたことになります。
だから過去ほど平穏に思えるわけです。
また自己縮小が始まると逆転して過去ほど騒々しかったことに気付くのです。

だから自己拡大することよりもあるがままに暮らしていたほうが苦楽・喜怒哀楽・気疲れを味わなくて済むのです。
言い換えればその苦楽をわざわざ味わうために、わざわざ無理し苦労していることになります。
その「わざわざ」が(必要の無かった)余計・余分な事なのです。
その「わざわざ」の為に生きているようなものです。

その「わざわざ」が必然と思っただけで「真の必然」ではなかったことになります。
その必然ではない事を必然と思ってその必然を追い求めていたから自己拡大の世の中になったわけです。
そこで苦楽を味わないで済む自己縮小の実践をすれば、その苦楽が如何に騒々しい生き方であったかに気付くわけです。
もし仮に、本心から自己縮小したけれども此れまで通りに自己拡大で生きるほうが善しと思えるようなら、それは差別意識・特別意識丸出しで生き続ける特別な人生になり決して心休まることはないでしょう。

そこで宇宙・神の調和の真理からすれば、自己拡大してきたのならその反対の自己縮小することで心のバランス・調和がとれます。
すなわち良い悪いの矛盾する意識で生きているこの世・人間界だけに、一方的に自己拡大を続けるばかりの人やその自己拡大を知らないままに居る人では一方通行の片手落ちになるわけです。
だから自己拡大を味わいつくして後に自己縮小するからこそ、その裏表の真価・調和を知ることになるのです。
すなわち此れまでの自己拡大が無駄にならないのです。

そして自己縮小で無くなっていくものがあっても元に戻るだけで生きることには支障が無いのです。
例え私に軽四やオートバイが無くなっても歩いていけばいいことです。
そして歩けなくなればそこでホームヘルパーに頼めばいいことです。
・・・そのお手本として現に近所のおばさんが障害者で独り身でその通りの生活をしています。
また寝たきり老人になればそこで介護師やヘルパーのお世話になればいいのです。

そしてその節目やその都度ごとに、その有難さに気付き、その感謝の心の必要性を気付き知った時点からして、その確かな実践を始めても決して遅くはありません。 しかしそれ以上を望むのは必要としないものをねだる欲になります。
だからあとは(他力を当てにせずに)「必然ご縁」の成り行きに任せとけばいいのです。
そして真に必要とする必然があればそのご縁がありますので前もって心配することもありません。
・・・「捨てる神あれば拾う神あり」の世の中でお蔭さまとお互い様の関係があります。

だから「何とかなっていく」のもこの世のアリガタイところです。
そして成るようになっている事実が自らの意識が招いた結果に思えればそれで終わりますから執着にはなりません。
そして「何ともしがたい」死に目に陥ればそこでも執着しないで成り行き任せにしていれば心安らかな眠りにつけるわけです。

生きている中で特別に執着して「得」をした裏にその「損」も同時に抱え込んでいる事実を知る結果になります。
それが裏表のある「この世」の現実です。

此れまで特別に生きた人が普通を知るほどに、その特別よりも<普通>に生きる事を選ぶ事になります。

2011年11月11日 | Weblog
この世は宇宙・神・愛(全知全能)のお仕組みで動いていますから偶然はなく全てが必然ご縁の仕組みで成るようになっています。
だから皆さんも此れまでに摩訶不思議や奇跡現象に出合ったり、またこの世の矛盾やその人間関係の何ともし難い目に遭われてきたことと思います。

私は商売人としていろんな事に取り組み稼いでいましたから、その顧客はもちろん同業者や卸問屋や生産製造業者とも業種ごとに様々な関係がありましたので、それらの仕組みやその人間関係から様々なことを学び知ることにもなりました。
また先駆け意識で様々な趣味嗜好娯楽を味わってきたことからも、それらに関わる人達との人間関係や人間模様も多く学び知ることが出来ました。

そんな中で特筆できることにあるのが・・・自力で出来ない事を他力・業者に頼るわけですから、その他力に対しての感謝とその対等な金銭の支払いがあるのが当たり前になっています。
ところが支払いの時に難癖をつけて値引きを引き出したがる人、また僅かな不備な点を探し持ち出して、私は誤魔化され騙されないぞ!一筋縄にはいかないぞ!とばかりに文句を並べ立てる(心の貧しい)商売人泣かせの人が時たま居ることです。

また私が顧客側に立ったときに、その関わる面倒がいやで(不信感もなく)概ねに任せ切りにしますが、それが手抜きや価格の上乗せがあったりすると、そこで何かと事細かくチェックする口うるさい人が得をすることになりますから、その得したいために面倒なことを言いたがる人が多くなる原因でもありまが、その結果(任せ切りではなく)互いが事細かく面倒な事を確りと打ち合わせしなければ事が進んでいかない時代(束縛制限しあう関係)にもなっているのです。

また納入業者いじめが当たり前になっている(納入先の)担当者・上司や社長までもが同じ類の中小企業もあるということです。
ところが個人顧客ではない企業だけに何ともし難い目に遭っても、それに耐える我慢や妥協が必要になりますが、その度が過ぎてくるとそれが重荷になり(楽しかった仕事が楽しくも嬉しくもなくなり)私の性格からして納入業者を辞退することになります。

それでも必然ご縁から(捨てる神あれば拾う神もいることから)新たな取引先からお声がかかりましたので倒産することにはなりませんでした。
しかも自らが欲から捜し求めたことではなくて先方からの「必然のご縁」でしたから、それだけに納入業者として喜ばれることはあっても難癖的なクレームや金銭的負担やお接待を持ち出されることはありません。
しかしそれでも人事異動で担当者やその上役が変わるたびに業者いじめに遭いますから、またそこででもやっていられなくなって納入を辞退することにもなり、そんな繰り返しが続いたことから商売・事業をすることの違和感と私なりの限界を感じ気付いたわけです。

そしてその時にはご縁必然で宇宙エネルギー・見えない世界・精神世界に目覚めていたことと、また嫁いだ娘が田舎暮らしを望んでいたこととがきっかけの必然ご縁から今の暮らしに至っているのです。
そして何度も書いているように自己拡大で生きることよりも自己縮小で生きることの真価を知ったのです。
すなわち自己拡大の矛盾・違和感・人間意識の何ともし難い目に遭ったからこそ、それを味わないで済む自己縮小の良さに自信確信が持てたわけです。

そして宇宙・神の愛の仕組みからすれば、自己拡大ばかりし続けている人や反対に南海の楽園でその日暮らしの呑気気楽に生き続けている人では、いずれも片手落ちになるわけです。
だから自己拡大と自己縮小の両面・裏表を知ってこその、その自己縮小の真価を知る必要があったのです。
だからこのブログに来られたことがご縁であり必然でもあるのです。

だから此れまで自己拡大してきた人に残るのは自己縮小だけです。
そして過ぎた自己拡大で無理した人ほど(概ね)自己縮小もそれだけ難しくなります。
またその自己縮小の実践中にも様々な気付き学びがありますから、それが完全真理の理解力や実践力にもなり、それが自信自力にもなりますから、その実践なくして先に進んで行くことはありません。

だから此れまでの人生・自己拡大を生かすも殺すもあなた方の意識にかかっています。
そして実践さえすれば、地上の天国とは言えなくても「気楽」に生きていけることのその真価を知ることにはなります。
そして特別に生きていた人が普通を知るほどに、その特別よりも普通に生きる事を選ぶ事になります。

現在の過疎地暮らしも時代の先駆け意識・先取りの感性から始めた部分があります。

2011年11月10日 | Weblog
良い悪いで判断している限り自己満足と不平不満が出てきますから、自惚れ・プライド・自己主張・自己顕示、そして名誉名声肩書きの権威権力(欲)、それらを守り闘う守り意識の潔癖完璧・正義感、そして不安心配・怒り恐れ・やきもち嫉妬・仇討ち仕返し・復讐制裁・やけくその破壊意識までもつながって出てきます。

その破壊意識を持っていても出ていないときがありますから、それを勘違いして私は持っていないと自信ありげに思う人が多いようですが、子供を叱ることが既に仇討ち仕返しや破壊意識になっているのに気付かないだけです。
だから「持っていない」のではなくて、今は<出て>いないだけですから、いつ出てくるやれ判りません。

だから初期の不平不満が出たときに「気付く」ことが重要なわけです。
そして「執着」しないことです。
だから気付かなければ執着にもなりますから、つい子供を叱ることにもなり、また力ずくで抑えることにもなります。
それが子供に反発反抗心を植えつける結果にもなり更に深刻になっていきますが、それも元は親の責任です。

私が「しがらみ」から離れ、過疎地で世間離れしたように暮らしているのも結果的には逃避していることになります。
それは不完全意識が「出る」ことが自他共に(得にならないで)損なだけだと判ったからかもしれません。
また人様が「出して」いるために私が影響されてその中に巻き込まれるのがいやだからです。

そして己の自信と自力とその自己責任・自己結果の独自独歩で生きることが間違った生き方とは思っていないからです。

そして万が一にも破壊意識が出ても現在はその原因とその結果が犬や猫が相手ですからめったになく、また一時的に感情が高まっても直ぐに治まり執着することも根に持つことも短時間ですみます。
ところが相手が人様になるとその感情を裏に隠すことになり、その不満・反発反抗心・敵対心が根強く残りそれが執着になりやすいのが私にありますから、そうなれば結果的に面白くも無いことに囚われて自分が損することになるからです。

だから世間の中で暮らすよりも(同じ傘の下でいるよりも)世間離れしたほうが(自前の傘のほうが)私には都合がいいのです。
しかも自分の傘の中に人様を招き入れようとすることが無理であり無駄であり余計な事になるのを十分知ったからです。
しかも自分を守る傘がいらなくなる意識体「命・意識」になることが先決だと判ったからです。
しかもそうなる前に「雨やんで傘を忘れる」ような意識になることがないように注意する必要もあります。
その為にも食って寝て糞をして当たり前に生きているだけでも感謝の心になる意識が必要になります。

ところで持っている不満を我慢して貯めていると堪忍袋の緒が切れて一気に吹き出るときが必ずあります。
それが世間でよくある「何でそんなことで」「大したことでもないのに」と言うような、現実に現れた原因の一端を見ただけで判断しているから、その常識的な判断からはるかに超えた形の騒動から自殺や事件犯罪までありますが、それがいつ我が身や身近な人に起こるかもしれないのが現在です。
たとえそれを乗り切っても精神的なことの症例症状(うつ病や痴呆症)が出る可能性もありますし、自らがそうならなくても身近な人がそうなってそれに巻き込まれて難儀する可能性も十分あります。
そして最終的には老後の生き様や死に目に遭うときの苦しみに現れるようです。

そんな人的なことだけではなくて色んな災害が所かまわず起きている現実も知っていますから、人的なことも含めた予知できる有事に対処するだけの心つもりで暮らしています。
・・・そのことは何度も書いているので省略しますが・・・上の位置で暮らしているとその落差が大きいが、落差のない位置で暮らしていればそのままの自力の暮らしが続くだけになり、世間の有事が私には有事にはならないで済みます。
そして死を怖がることなく、災害・事故であれ重病であれ、如何に自然死に近い常態で死んでいくかに意識を使っているのです。

そして私の自己満足ですが・・・現在の過疎地暮らしも時代の先駆け意識・先取りの感性から始めた部分があります。
だから完全真理を知る以前から、執着のない、無理のない、当たり前の素朴さを活かした生活が始まっていたのです。
しかも宇宙・神の愛のお仕組みに任せた必然ご縁の「成り行き」からなったことですから更に申し分ないわけです。
しかもそれ以前からこうして私の知った事を文書にして伝えていたのも(偶然ではなくして)「必然」だったわけです。

不完全意識の者同士が同じ屋根の下で暮らすことが疎外感や孤独感や不平不満にもなっているのです。

2011年11月09日 | Weblog
私の住む所が過疎地だけに「静寂」があります。
しかしそれだけに田舎臭いし、不便ですし、夜ともなると見渡す限り電灯の一つも見当たりません。

またそれだけに自然界に囲まれていますから(静寂といっても無音ではありませんから)風の音(枝や葉が触れ合う音や落ち葉の舞い落ちる音)や色んな小鳥の声や虫の声が聞こえてきますし、時計の秒針の音まで聞こえてくるし、時たま農作業やの生活観の音が遠くから聞こえてきます。

そんな私にもロマンチックなところがありますから四季折々の風景や草花に意識を寄せることもありますし、朝の日の出とその朝焼け空や秋の夜の満月が目線の高さで見られるのも見事です。
その月夜で照らし出された積雪の風景や夜明け前の静寂とその薄明るい風景は格別なものがあります。

それも暇で退屈しているゆとりの時間があることとから過疎地ならではの風情に意識を寄せることが出来るのですが、それらを味わっているのが私一人なのが勿体ないようでまた残念なように思うのですが、そうかといって連れ添いが側にいれば世の常で良いこともあれば悪いことにもなりますから、結局は独り身の自由があって孤独があるほうが私には適しているのです。

特に私は側にいる人のご機嫌・顔色を気遣うタイプですから・・・それを真理で言えば「人に対する恐怖心」となります・・・相手の意識に巻き込まれやすいのです。
だから(仕事や家庭でも)自分がしていることで人様が良い思いをしているほうが私には気楽でそのほうが嬉しいのです。
だから私が様々な自然界の風情に意識が行っている時に連れ添いが同じ意識であれば気分は上々ですが、それに反する意識でいられると虚しいというよりも相手を気遣うほうに気が取られて(巻き込まれて)何とかしなければとなるわけです。

だから連れ添いが寝ているときに私だけが夜明け前の静寂や月明かりに照らし出されている風景を見ることにでもなれば(その気にはなれませんが)、互いの意思の疎通がないことからして、そばに親しい人がいるのに何故か孤独感を味わうことになりますから余計に気苦労することになります。
すなわち不完全意識の不調和の者同士が同じ屋根の下で暮らしたり同じ傘の中で共に居ることが(潜在的)疎外感・孤独感や不平不満になっているのです。
だから思うがままに自由に(動ける)暮らせる孤独のほうが(人様に巻き込まれなくて)呑気気楽なわけです。
だから(過去も現在も)家族には自由にさせていましたから、私にもその見返りの自由があったわけです。

ところが大勢の人に囲まれている形があっても意識の疎通がないのは事実ですし、自己主張し合い、私は正しいと否定反発されることもあることから、大勢の人の中でいるのに疎外感や孤独感になっているのです。
だから何度か書いているように否定反発のない調和の意識で語り合えたり、共に行動できれることが少しでもあれば、その時に何か格別なことがなくてもそれだけで十分になるのです。
・・・見える「形」ではなくして<意識>が重要なわけです。

だから夜明け前の静寂を静かに味わえる意識の者同士がその静寂を味わえる事になればそこに「至福」の時があるのです。
月夜に照らし出された夜の自然界を愛でる者同士がいればそれが至福にもなるのです。
・・・あるがままが至福になるのです。

ところが日夜刺激に満ちている生活をしている人には「かりそめ」で終わる可能性があります。
また私のように過去が変化刺激に満ちていたのと、また独り身で味わっていて共感・共鳴が伴わない物足りなさや、何度も見ているので次第に味気ないことになっています。
・・・私の場合は静寂と言うよりも人の気配がしないので気楽なだけかもしれません。

とにかく特別が好きな人には不向きです。
その特別がないから気楽なのも事実です。
だから「普通」に生きていればそれで十分なわけです。
しかし生活水準の標準ではありませんで、過不足のない普通、すなわち良い悪いで判断する必要がない普通です。
その為にも執着しない、そして(何でもないような)素朴を親しみ十分に味わう事に意味があるのです。
その素朴は自己満足につながらないから、その不平不満にもならないのです。

如何にも悟った風に言えるのも、この世の不完全な形とその人間関係をすぎるほどに味わってきたからこそ言えることです。
すなわち「特別」を味わい尽くした後に<普通>を味わい、その普通の真価を知ることになれば、その普通が宇宙・神の愛であることに気付き、この世から特別が消えて宇宙・神・万物皆が普通・当たり前になって「差」の無い<すべてがひとつ>の意識になれるのです。

人間の意識改革が宇宙の意識改革につながることから地球維新&宇宙維新とも言われるわけです。

2011年11月08日 | Weblog
大元から実在している<完全>な宇宙・神は「あるがまま」にありますから、「良い悪い」で判断する不完全意識はありません。
もし良い悪いで判断する事になると矛盾する事になりそれでは完全では無くなり不完全になりますから、その不完全意識の宇宙・神が完全な宇宙・自然界・万物を創造することは絶対に出来ません。

もし不完全な宇宙・神が全知全能のエネルギーで何らかの姿形を持つ生物を創造することが出来ると仮定すれば、犬から猫が生まれたり人間からサルが生まれたり、また逆なことがあらゆる所で起きて「ごちゃごちゃ」になっているはずです。
ゆえに<完全>だからこそ、その完全な姿形を創造し続けることが出来るのです。

ところが元々から完全なだけに、その完全が当たり前ですから、その完全しか知りません。
そこでその完全の素晴らしさを「知る」手立てとして、良い悪いで判断することの出来る人類を創造したと言われています。
※完全な宇宙・神が創造した完全な地球(自然界)に、わざわざ余計な不完全意識を持った人間(お邪魔虫)を無駄に創造するはずもないことから言えば、それが<必然>で創造されたことになり、そう言われていることが「事実」となります。

その事実を判りやすく書けば・・・人間が死に目に遭うことになった時に、普段は思ってもいなかった普通に生きていたことのアリガタイことに気付くことになります。
その人間の気付きを宇宙・神に置き換えれば・・・「普通」に役割使命のエネルギーを出している宇宙・神と言われる意識体(意識・命)自らが、その普通に出しているエネルギーがアリガタイことになっている事実を人間を介して初めて知ったことになるわけです。

だから人間として生きている中で良い悪いで判断するその裏と表の矛盾を味わい知ることで、それが苦と楽の結果になり、その苦と楽を繰り返しをずーッと味わい続けていると肉体的にも感情的にも精神的にもやがて疲れますから、その心身ともに疲れた時のタイミングに合わせるか如くにして・・・(完全真理が説くところの)宇宙・神と同じ「あるがまま」の普通に生きる事を実践することで実際に苦や楽が無くなる事に気付き知れば、その苦や楽のない普通に生きている中にも人間としての役割使命を果たしているというその真価にも気付き知ることになりますから、(先程に書いた)宇宙・神が普通に役割使命を果たしている中のその真価と人間が普通に生きている真価とが同じ同類同等になりますから・・・その人間も宇宙・神も同類であり、その宇宙・神の一員(多神にして一神)(一神にして多神)であることにも気付き、すべては「ひとつ」であることにも気付き、結果的に「われ神なり」を自覚することになるわけです。

しかも大元の宇宙・神が知らなかった普通の真価を(人間だったときの良い悪いで判断していたことから)初めて知ったことになりますから、その当たり前だった普通が価値ある普通になり、その価値ある普通の真価を知った意識・命が宇宙に始めて誕生したことですべての宇宙・神の意識改革が同時に起きることにもなるわけです。
・・・ゆえに人間の意識改革が宇宙の意識改革につながることからして、それを地球維新&宇宙維新とも言われているわけです。

だからその普通の真価を悟るには(先程に書いたように)此れまで自己拡大していた人が疲れて、その逆の自己縮小を思い立ち実践しそれを実際に味わったところ、その自己拡大で生きることよりも自己縮小した普通の生き方のほうが苦労することなく、気疲れすることなく、穏やかな心で楽ちんであることを知ったことでその普通の真価に気付き悟るようにもなるのです。

ところがその自己縮小のタイミングに乗れないままに自己拡大をし続けていても、やがて真坂の有事(天災・人災・失業倒産・重症や重病や死に目に遭うなど)が仕組まれて余儀なく自己縮小する形になることもあります。
その時になって「普通」に生きていたことや人間として生きていたことのそのありがたさやおかげさまに気付く事になります。

ところが「雨やんで傘を忘れる」人がいるように、有事から立ち直ると再び自己拡大を目指して頑張り続ける人がいるのがこの世です。
その原因にあるのが「あるがまま(普通)」に実在する完全な宇宙・神を知らないからです。
だからその中には不完全な嘘偽りの(特別な)神を説く宗教や神社仏閣の神仏を信じて祈願することにもなっています。
またそんな人に限って特別になりたい意識が強いことから普通に生きることが出来ないわけです。

だから普通に生きることが出来ない人達に巻き込まれないだけの意識力・実践力の自力自信でもって自由に独自独歩で進んでいくしかない、と書いているのです。
その為にも先ずは完全真理を学び知り尽くしながらもその実践意識でもって無理なくやり続けるしかないとも書いているのです。
それにも思惑期待(欲)を持たない普通のままに「食って寝て糞をする」当たり前のままにして、あとは宇宙・神の愛のお仕組みに添う形となる、己の意識が原因で招く「必然ご縁」の成り行き任せに生きることも添えて書いているのです。

だから完全真理が説くところの「すべては意識にあり」となるわけです。

私は不完全意識丸出しだけに、その不完全意識を主体にして(売り物にして)書くことが多いわけです。

2011年11月07日 | Weblog
私が様々な摩訶不思議を情報交換で知り、その中の宇宙エネルギーの実在を知り、それが縁で想念の世界・霊界の事を知ることから概ね「見えない世界」全般を知ることになり、それらが全て結び付く完全真理を知ったのですが、その完全真理の理解とその実践によって確信悟りとなっている最中ですが、その過程で役立ったのが「ニワトリが先でもタマゴが先でもない」元から実在している「意識・命」が姿形を成しているだけのこと。 

すなわち元からある「意識・命」が原因でその結果がこの世で見える姿形であること。
そして人間の命は意識で生きていること、すなわち人間は意識で生きていること。
そして元から実在していたのだから見える形が死しても元に戻るだけのこと、だから過去性を持っていること。
そして宇宙・神・愛のエネルギーによって万物が創造されているのだから、すべてが宇宙・神の一員(我神なり)であること。
そしてすべてが完全だから実在できているわけですが、不完全からは何も生まれないから実在できないこと。
すなわちこの世に完全はあっても不完全はないこと。
しかし人間はその意識の中で矛盾する良い悪いで判断していることから不完全意識であること。

まだ他にも書くことはありますが省略して・・・
それらが完全な真実・事実だけに「信じる」必要性が無くなったので、私の中では完全真理が正しく完全になったのです。
ところが私は不完全意識丸出しだけに、その不完全意識を主体にして(売り物にして)書くことが多いわけです。

その点から言えば耕栄さんは完全意識を売り物に(主体に)説明していますから、私のように不完全意識丸出して生きてきたものには少し難解なところが(私だけかもしれませんが)ありました。
そこで完全意識が主体の耕栄さんの説明を真似て二重に書くことよりも、自分の不完全意識を主体にしてその事例を書くほうが読まれる方の理解が早まるのではと、自分勝手に決めこんで此れまでに到っているわけです。

しかもこの世で生きながらにして完全意識になることが到底無理だとなったからには遠慮なく不完全な形を出して説明しても差し障りはないと確信めいたものまであります。
だから執着しない、素朴であればいい、無理のない普通であればいい、食って寝て糞をするだけでもいい、宇宙・神・愛のお仕組みとその必然ご縁のお仕組みで成り行き任せで生きる、などの事例が増えているわけです。

巷の宗教で見られるように、教祖の言葉や聖書経典の類を丸呑み丸暗記してそれを正確に伝えるような語学力や読解力や記憶力がない私だけに、何らかのきっかけで総体的・イメージ的・端的に浮かんだ真理の言葉に添えてそれに見合う私の事例や私の思いを文書化しているにすぎません。

そんなことから言えば・・・ブログに書かれた見出しタイトルを読んだだけで概ね理解できるような賢い人には余計なことが多く書かれているから不向きなブログになります。
しかし「知ったかぶり」でいる人が読めば気付くことが多いと思っています。
そして「実践しているつもり」の人が読めばそれにも気付くと思っています。
なんたって賢い耕栄さんが書いた文書ではなくして、未熟な私が学び知り気付いた事を文書化しているからです。

また初期の摩訶不思議の頃から文書にして掲示板・HPなどで公開していましたが、そこでご縁が出来る人とは意識の波長が合うようですが、宇宙エネルギーに移行したり想念霊魂の世界に変わったりすることでそのご縁が終わる人と新たなご縁が始まったりしてきましたから、その時々で波長が合う人と波長が合わなくなるということもありましたから、この完全真理・ブログに訪れている人と私とは波長が合っていると思われます。

とは言っても未熟な私が知っていることに限られていますから、皆様方の知っている事を書き添えてくれる事を望んでいます。
※学業を怠っていたために言葉の正確な意味や書くときの作法・文法も知らないことから、類する言葉を並べ立てて書いていますから、それらをイメージ的に捉えてください。



「あいまい」には理念・信念もなく、肯定も否定もなく、分け隔てる差もなく、事実だけになります。

2011年11月06日 | Weblog
私が宇宙エネルギーに取り組んでいるときに聞いた話ですが、アインシュタインが日本を訪れたときに言ったことに、日本人の「あいまいさ」によって世界をリードする時が来ると予言的に言ったそうですが、どうもそれが国家政治経済を意味したものではなくて日本人の精神的な面から言われたそうです。

その例えに伝統風習の八百万の神々を信仰しながらもその他諸々の宗教も受け入れているその「あいまいさ」に驚いたようです。
その「あいまいさ」が今の完全真理で言うところの「良い悪い」で判断して決め付けないことにつながりますし、優しさ思いやりにもつながる面もあるし、また一つの事に執着しないで済むことにもなります。
・・・だから完全真理が西洋では無くて日本から始まったことにも意味があったわけです。

また完全真理に付随して説くところの自然体や自己縮小や素朴に生きている民族が世界中に実在している関係から言えば、それら民族から完全真理が始まってもおかしくないはずですが、ところがそれら民族は生まれながらにして元々からその生活を普通にしているわけですから、完全真理が説くところのこの世の不完全な形やその人間関係の矛盾を多く味わい知り尽くしていません。
・・・だから文化文明が栄えている日本から始まるのが適していたことにもなります。
しかしそれにしても完全真理の理解者やその実践に取り組んでいる人たちがあまりにも少ないのが未だに続いています。

その原因にあるのも「あいまいさ」であり、中途半端で、頑固一徹でもないし、画一的でないこと、意思統一できないことにありますが、それを裏返せば国家的思想や宗教や国家的理念・信念・主義を持たずにして「あいまい」に生きてきた事になります。
だから国内で起きた大きな変化といえば明治維新くらいなもので、大した革命も改革も無く(一部の指導者が入れ替わるくらいで)、また戦中に鬼畜米英と教育されたり天皇陛下万歳と特攻して行ったけれど、その太平洋戦争に敗戦しても、その「あいまい」によってテロ活動や地下組織で対抗抗戦することも無く、戦勝国のアメリカの思惑に従うことで戦後復興が進んでいきましたから、敗戦国家の中で一番めざましい発展を成すことが出来たのかもしれません。

だから理念・信念・思想・哲学や宗教・精神世界などの見えない世界を「あいまい」にしておいて、もう一つ「あいまい」にしている目に見える実生活を先ずは優先することになったのかもしれません。

ところがその「あいまい」を精神世界に活かせば完全真理に通じるところがあります。
すなわちOKでもあるようでNOでもあるようで、白と黒に決めること無く、すなわち良いも悪いも定かでなく、肯定も否定も定かでは有りませんから、結果的には事実だけを見ていることになっていますし、また「あいまい」には分け隔てる差も定かでありません。

その定かでも、定かでもないところの、どっちつかずですから、あやふやで、何ともし難い、どうしようもない、ところがあります。
だから複雑で、ややこしくても、それを思考錯誤しなければ「執着」にはなりません。 しかも執着したところで定かにはなりません。
だから執着する必要も無くなりますから、表れた事実を気にしないままに忘れることができます。
そして満足しているようでもなく、また不満になっているようでもないことからして、どっちでもないことになり、そこに特別がないことからして普通になります。

ところがしかし、日常生活の中で良い悪いで判断することが当たり前の常識意識になっていますから、その「あいまい」な民族性意識が精神世界・意識の中で死んだも同然になり効をなしていませんから、なんだか勿体ないことをしています。

そこでその「あいまいな」民族性があるということは既に潜在意識の中に実在しているはずですから、その「あいまい」を表に出せば「決め付ける」だけのその価値・価値観が見当たらなくなりますから、完全真理で言うところの「判断」が加わらなかった「あるがまま」と同じになり、何事にも平然となり全てが普通に思える意識と同然になります。

そしてこの世で生きながらにして完全意識になることが不可能であっても・・・あいまいな日本人に生まれて良かった、日本から始まる完全真理を知って良かったとなり、そして普通に暮らせるだけでアリガタイことになり、人間に生まれて良かったと思えるようになれば、不完全意識を持っている事に変わりはなくても、この世が地上の天国にも思えるその意識になれるのです。

「自信と自力」「役割個性」「特別意識」「優しさ思いやり」「敬い尊ぶ」「真価の普通」「自惚れ自己満足」

2011年11月05日 | Weblog
「自信・自力」の言葉が使われていますが、自信が自力にもなり、その自力が自信にもなることから一体です。
その自信・自力は特別ではありません。
己が当たり前のように出来ることが、それが自力であり、その自力に自信があってやっていることになります。
もし自信が無ければやりたがりません、だからその自信がないのは自力がないからです。

ところが特別なことが出来ることが自信・自力に思う人がいますが、その特別な事を普通にやる人はいません。
その普通にやれない事を成すことからそれが特別意識になり自惚れ自己満足になるのです。
だから自力・自信から普通にやれることはそれが当たり前ですから自惚れ自己満足は出てきません。
・・・普通にやっている仕事や炊事洗濯が特別なことに思う人はいません。
ところが自惚れ自己満足が出るようなら、それは普通のことではなくて特別な事をしていると思ったからです。

また役割個性と書くことがありますが、それも当たり前・普通に出来ている自力・自信のことですから特別ではありません。
例えば我家の犬や猫は私より視力・嗅覚・聴覚・機敏さが特別に優れていますが、それは犬や猫の役割・個性だから当たり前であって特別に思うことにはなりません。
ましてその犬や猫の真似をすることは出来ませんし、当たり前の事をしている犬や猫を特別に敬い尊ぶことにもなりません。

それと同じく人間界にも様々な役割個性・自力自信を持った人がいますが、それが普通であって何ら特別ではありません。
ところがそれを特別に思う人たちがいると、その特別な事を成していると思われる人の元に集まりたがるし、それを真似たがるその特別意識でもって事に当たりますから、当然それら成し遂げたことも特別なことになり自惚れ自己満足になります。

しかも生まれながらにしての天才・天命(役割使命)を持った人までがいつの間にやら特別意識(ミイラ取りがミイラになる例え)(神社仏閣に祀られる動物霊の例え)になるのがこの世の常にあることも知りました。
そしてそれら特別な人の元に憧れ敬い集まりたがるのも、それを真似たがるのも、同じ特別意識を持っているからです。
その特別意識を持っている私達のことを・・・自然界にも劣る意識・命と言われるわけです。

このブログでは「優しさ思いやり」の言葉をあまり使っていません。
その優しさ思いやりが愛だと解く人もいますが、抽象的で(完全ではなくて)人それぞれに尺度も違うので不完全なのは確かです。
その不完全な優しさ思いやりをこれまた不完全意識の者同士が授受し合っているのですから、優しさ思いやりどころか迷惑がられる可能性もあります。 だからこの世では無縁の言葉に思っています。 だからお互いの意識・歯車が噛みあう関係にならない限り無駄なことで終わります。 だから人様の事を意識していても口出し手出ししないままに「ほっとく」と書いています。 すなわち宇宙・神のお仕組みに任すことになりますから、その分だけ我が身(意識・命)のことに集中できます。

その宇宙の愛エネルギーを説く人の中に、その愛が見当たらないような言動をしているのがあると私なりに気になって(宇宙エネルギーの時も霊能者の時も)その愛を説く人の言葉を裏付けに使ってその違和感の旨を伝えると、「あんたに何がわかるのよ・・・」風にたしなめられました。
しかも宇宙エネルギーの時は脅迫まがいのことまで言われました。

そして今は山田耕栄さんの完全真理に関わっているわけですが、憧れ敬っているわけでもないから、不完全な言動が出てくると、なんだか変な感じがしてその違和感が出てくることがあります。
だから宇宙的な愛を持っていてしても不完全意識が時々顔をのぞかせることがあることも知りました。
その違和感のこともブログに書いています。

それだけに他力をあてにするよりも自力でもって、その自力・自信の己の感性にしたがって独自独歩に歩いているほうが私向きだと思っています。 
そして私なりに知った事を書きたくなるのが私ですから、此れまでにも各分野の情報やブログを書いてきましたし、それを捨ててまた新たなブログを書き始めることになりましたが、それもこの完全真理のブログで終わるのは確かです。

「追記」
敬い尊ぶことの中に○○だけ!がありますがそれは不完全です。
すなわち神だけ、イエスや釈迦やサイババ・耕栄さん、先祖両親といったのは特定・特別になります。
だから「尊ぶ」なら万物すべてを尊ぶことになります、だから特別が無くてそれが「普通」になるのです。
その普通は価値観の伴わない「真価」の普通ですが、あえて言うならば尊ぶ心のある普通になります。
だから皆が普通意識になれば皆して尊びあう関係になります。
それが私の<夢>ですが、その夢を見るには(個人意識を捨てる)「眠り」につかなければなりません。

私達の人生は自らの意識で引いた「あみだクジ」で決っているようなものです。

2011年11月04日 | Weblog
宇宙・神のお仕組みによって人間が生きている事を何かと書いていますが、その必然ご縁の巡り合せが自然体によるものとまたは無理をしている場合とでは自ずと違った結果になるのは当然です。
だからすべては自分の意識の自己責任・結果だとも書いています。

その「仕組み」を判り易くすると、宇宙全体をすっぽりと覆う見えない赤い糸で構成された網があり、その網目の一本の糸が私の意識・命だとすると、ちょうど節目ごとに「あみだクジ」を引いたように進んでいる事になります。
そしてその「あみだクジ」の行く手に金儲けや失敗や健康に関わることから事故や怪我から死に至ることまで色々とあり、また仕事や恋愛や友人や家族構成などまで(枝分かれしたように)つながっているし、その先にある未だ見えていない「あみだクジ」の中の様々な途中結果(○やXや爆弾)を自らの意識で選んで進んでいる格好になります。

それも<必然>が必ず絡んでいますから、南海の孤島にいる人がその「あみだクジ」を引くことはありません。
だから自己拡大を続けている人に自己縮小のくじを引くことはあります。
また映画やドラマであるような重病の我が子を救うために見事な愛情でもって必死に看護できる人に、そのくじを引くことはありません。
ただ見せ掛けの愛情を持っている人に(必然から)我が子の災難を引くことはあります。
また子供に優しいお母さんがその愛情さえあれば大丈夫と思っていると、その子の早死にのくじを引くこともあります。
・・・早死にすることを前世から望んでいる子供を持つ事になるくじも同時に引いている場合もあります。
・・・子供が一人立ちするまでの間は概ね親の意識が絡んだ結果が出ているようです。

その必然もその人の意識力につながっていますから、金儲け意識が強すぎるとその金儲けのくじばかり引き続けることはあります。
だからドロボウはその犯罪ばかり引く事になったり、殺人者が連続殺人を起したりもするのです。
だから私は正しいと強く思っている偽善者はその偽善ばかり引き続ける事にもなるかもしれません。
だから名誉名声権威権力を強く意識していればそのくじばかり引き続けることもあります。

そして同じくじばかりを引き続けているとその先にその当りが無くなりますから、それより先に進む道がないのも同然になり、そこで人生が終わったり廃人同様になる場合もありますが、それも必然が絡んでいますから、未だ「お役」が終わっていなければ(気付けば)、それらの経験を踏まえた新たな道のりのを「あみだクジ」で進む事になる場合もあります。

各々が「あみだクジ」を引きながら進む道のりの中にも時々精神世界行きのくじが見えるときもあるのですが、その人の意識の中にその必然性が薄いとそのくじを引くことにはなりません。
しかし此れまで歩いてきた道に違和感・虚しさや不信感を持ったりして、また別な道があるのではと気付きだした頃になればその精神世界や見えない世界の窓口に立つくじを引くこともあります。

その精神世界・見えない世界の「あみだクジ」永遠に続いていますが、くじで引いたところでいつまでも止まっているとそれより先のくじを引き当てることになりませんから、そのままに(不平不満と自己満足の)人生が終わるかもしれませんが、それでも未だお役が残っているようなら必然の「気付き」が起きて新たな道に進んでいくことになるかもしれません。

そして何よりも<欲>が絡んでいればそれらに「のめり」こんだり、また回り道・寄り道・でこぼこ道・谷坂に出くわして相当に疲れたり、また急ぎ慌てて休む間も無く息切れしている場合もありますから、酸素吸収不足で心身ともに疲れ果てる事になるかもしれませんので、当たり前の普通の平坦な道を選ぶほうが賢明で楽チンのお利口さんの人生になることでしょう。