「自信・自力」の言葉が使われていますが、自信が自力にもなり、その自力が自信にもなることから一体です。
その自信・自力は特別ではありません。
己が当たり前のように出来ることが、それが自力であり、その自力に自信があってやっていることになります。
もし自信が無ければやりたがりません、だからその自信がないのは自力がないからです。
ところが特別なことが出来ることが自信・自力に思う人がいますが、その特別な事を普通にやる人はいません。
その普通にやれない事を成すことからそれが特別意識になり自惚れ自己満足になるのです。
だから自力・自信から普通にやれることはそれが当たり前ですから自惚れ自己満足は出てきません。
・・・普通にやっている仕事や炊事洗濯が特別なことに思う人はいません。
ところが自惚れ自己満足が出るようなら、それは普通のことではなくて特別な事をしていると思ったからです。
また役割個性と書くことがありますが、それも当たり前・普通に出来ている自力・自信のことですから特別ではありません。
例えば我家の犬や猫は私より視力・嗅覚・聴覚・機敏さが特別に優れていますが、それは犬や猫の役割・個性だから当たり前であって特別に思うことにはなりません。
ましてその犬や猫の真似をすることは出来ませんし、当たり前の事をしている犬や猫を特別に敬い尊ぶことにもなりません。
それと同じく人間界にも様々な役割個性・自力自信を持った人がいますが、それが普通であって何ら特別ではありません。
ところがそれを特別に思う人たちがいると、その特別な事を成していると思われる人の元に集まりたがるし、それを真似たがるその特別意識でもって事に当たりますから、当然それら成し遂げたことも特別なことになり自惚れ自己満足になります。
しかも生まれながらにしての天才・天命(役割使命)を持った人までがいつの間にやら特別意識(ミイラ取りがミイラになる例え)(神社仏閣に祀られる動物霊の例え)になるのがこの世の常にあることも知りました。
そしてそれら特別な人の元に憧れ敬い集まりたがるのも、それを真似たがるのも、同じ特別意識を持っているからです。
その特別意識を持っている私達のことを・・・自然界にも劣る意識・命と言われるわけです。
このブログでは「優しさ思いやり」の言葉をあまり使っていません。
その優しさ思いやりが愛だと解く人もいますが、抽象的で(完全ではなくて)人それぞれに尺度も違うので不完全なのは確かです。
その不完全な優しさ思いやりをこれまた不完全意識の者同士が授受し合っているのですから、優しさ思いやりどころか迷惑がられる可能性もあります。 だからこの世では無縁の言葉に思っています。 だからお互いの意識・歯車が噛みあう関係にならない限り無駄なことで終わります。 だから人様の事を意識していても口出し手出ししないままに「ほっとく」と書いています。 すなわち宇宙・神のお仕組みに任すことになりますから、その分だけ我が身(意識・命)のことに集中できます。
その宇宙の愛エネルギーを説く人の中に、その愛が見当たらないような言動をしているのがあると私なりに気になって(宇宙エネルギーの時も霊能者の時も)その愛を説く人の言葉を裏付けに使ってその違和感の旨を伝えると、「あんたに何がわかるのよ・・・」風にたしなめられました。
しかも宇宙エネルギーの時は脅迫まがいのことまで言われました。
そして今は山田耕栄さんの完全真理に関わっているわけですが、憧れ敬っているわけでもないから、不完全な言動が出てくると、なんだか変な感じがしてその違和感が出てくることがあります。
だから宇宙的な愛を持っていてしても不完全意識が時々顔をのぞかせることがあることも知りました。
その違和感のこともブログに書いています。
それだけに他力をあてにするよりも自力でもって、その自力・自信の己の感性にしたがって独自独歩に歩いているほうが私向きだと思っています。
そして私なりに知った事を書きたくなるのが私ですから、此れまでにも各分野の情報やブログを書いてきましたし、それを捨ててまた新たなブログを書き始めることになりましたが、それもこの完全真理のブログで終わるのは確かです。
「追記」
敬い尊ぶことの中に○○だけ!がありますがそれは不完全です。
すなわち神だけ、イエスや釈迦やサイババ・耕栄さん、先祖両親といったのは特定・特別になります。
だから「尊ぶ」なら万物すべてを尊ぶことになります、だから特別が無くてそれが「普通」になるのです。
その普通は価値観の伴わない「真価」の普通ですが、あえて言うならば尊ぶ心のある普通になります。
だから皆が普通意識になれば皆して尊びあう関係になります。
それが私の<夢>ですが、その夢を見るには(個人意識を捨てる)「眠り」につかなければなりません。
その自信・自力は特別ではありません。
己が当たり前のように出来ることが、それが自力であり、その自力に自信があってやっていることになります。
もし自信が無ければやりたがりません、だからその自信がないのは自力がないからです。
ところが特別なことが出来ることが自信・自力に思う人がいますが、その特別な事を普通にやる人はいません。
その普通にやれない事を成すことからそれが特別意識になり自惚れ自己満足になるのです。
だから自力・自信から普通にやれることはそれが当たり前ですから自惚れ自己満足は出てきません。
・・・普通にやっている仕事や炊事洗濯が特別なことに思う人はいません。
ところが自惚れ自己満足が出るようなら、それは普通のことではなくて特別な事をしていると思ったからです。
また役割個性と書くことがありますが、それも当たり前・普通に出来ている自力・自信のことですから特別ではありません。
例えば我家の犬や猫は私より視力・嗅覚・聴覚・機敏さが特別に優れていますが、それは犬や猫の役割・個性だから当たり前であって特別に思うことにはなりません。
ましてその犬や猫の真似をすることは出来ませんし、当たり前の事をしている犬や猫を特別に敬い尊ぶことにもなりません。
それと同じく人間界にも様々な役割個性・自力自信を持った人がいますが、それが普通であって何ら特別ではありません。
ところがそれを特別に思う人たちがいると、その特別な事を成していると思われる人の元に集まりたがるし、それを真似たがるその特別意識でもって事に当たりますから、当然それら成し遂げたことも特別なことになり自惚れ自己満足になります。
しかも生まれながらにしての天才・天命(役割使命)を持った人までがいつの間にやら特別意識(ミイラ取りがミイラになる例え)(神社仏閣に祀られる動物霊の例え)になるのがこの世の常にあることも知りました。
そしてそれら特別な人の元に憧れ敬い集まりたがるのも、それを真似たがるのも、同じ特別意識を持っているからです。
その特別意識を持っている私達のことを・・・自然界にも劣る意識・命と言われるわけです。
このブログでは「優しさ思いやり」の言葉をあまり使っていません。
その優しさ思いやりが愛だと解く人もいますが、抽象的で(完全ではなくて)人それぞれに尺度も違うので不完全なのは確かです。
その不完全な優しさ思いやりをこれまた不完全意識の者同士が授受し合っているのですから、優しさ思いやりどころか迷惑がられる可能性もあります。 だからこの世では無縁の言葉に思っています。 だからお互いの意識・歯車が噛みあう関係にならない限り無駄なことで終わります。 だから人様の事を意識していても口出し手出ししないままに「ほっとく」と書いています。 すなわち宇宙・神のお仕組みに任すことになりますから、その分だけ我が身(意識・命)のことに集中できます。
その宇宙の愛エネルギーを説く人の中に、その愛が見当たらないような言動をしているのがあると私なりに気になって(宇宙エネルギーの時も霊能者の時も)その愛を説く人の言葉を裏付けに使ってその違和感の旨を伝えると、「あんたに何がわかるのよ・・・」風にたしなめられました。
しかも宇宙エネルギーの時は脅迫まがいのことまで言われました。
そして今は山田耕栄さんの完全真理に関わっているわけですが、憧れ敬っているわけでもないから、不完全な言動が出てくると、なんだか変な感じがしてその違和感が出てくることがあります。
だから宇宙的な愛を持っていてしても不完全意識が時々顔をのぞかせることがあることも知りました。
その違和感のこともブログに書いています。
それだけに他力をあてにするよりも自力でもって、その自力・自信の己の感性にしたがって独自独歩に歩いているほうが私向きだと思っています。
そして私なりに知った事を書きたくなるのが私ですから、此れまでにも各分野の情報やブログを書いてきましたし、それを捨ててまた新たなブログを書き始めることになりましたが、それもこの完全真理のブログで終わるのは確かです。
「追記」
敬い尊ぶことの中に○○だけ!がありますがそれは不完全です。
すなわち神だけ、イエスや釈迦やサイババ・耕栄さん、先祖両親といったのは特定・特別になります。
だから「尊ぶ」なら万物すべてを尊ぶことになります、だから特別が無くてそれが「普通」になるのです。
その普通は価値観の伴わない「真価」の普通ですが、あえて言うならば尊ぶ心のある普通になります。
だから皆が普通意識になれば皆して尊びあう関係になります。
それが私の<夢>ですが、その夢を見るには(個人意識を捨てる)「眠り」につかなければなりません。