孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自己拡大が原因で「過去ほど平穏」に思えますが、自己縮小は「過去ほど騒々しい」ことに気付くのです

2011年11月12日 | Weblog
「食って寝て糞をする」こと以外に必要なものがあるとしたらそれは特別になります。
だからその特別が無くても何ら支障ありません。
ところがその特別を必要とする人が居たことから、その必然から特別な形が作られたわけです。

今年の寒波が長く続いたことから必然で小型の格安な電子レンジを始めて購入しました。
そして簡単便利に暖め直しできることに満足していましたが、その便利さを知ってからはやたらと電子レンジを使うことが多くなりましたが、それも元々は無かったものですから、(それを言い換えれば)無ければ無くても普段とは変わらなかったのが事実になりますから、その特別が無くても差支えがなかった事になります。

同じように私がパチンコに行かなくても普段と変わらない生活が出来ます。
ところがパチンコの面白さを知っているだけにパチンコ屋が身近にあれば通うことにもなっています。
しかし本心から言えばパチンコ屋が無い方が、無ければないでそのままになるから、余計な事をしないで済むわけです。
しかしそれでもパチンコに執着するようになれば遠く離れた所まで無理に出かけていくことになるかもしれません。

それと同じく食べ歩きや温泉巡りや名所観光地や海外旅行にまで出かけることは特別意識の執着になります。
それでもそれが当たり前に思っている人は金銭を惜しまずに使ってやりたがりますから、その分だけの収入も確保しなければなりませんので、普通ではなく特別出費になる場合もあります。
そこで残業したりアルバイトやパートに出掛けて無理する事になったり、またそれが原因で普段より気疲れが増えてきたり、また生活費を切り詰めたりと不自然になりますが、しかしそれでも思うように行かなければその収入面での夫や妻や仕事に対する不満まで持ち出すかもしれません。
・・・人それぞれですが、それだけに人それぞれのレベルがありますから、結果的には似たような結果になります。

だからそれらが無くても普通に生活できるのに(欲を出して)苦労したり気まずい思いをしたり不満に思ったりしたことになります。
すなわちそれらが「無かった」ほうが平穏に生活できていたことになります。
だから過去ほど平穏に思えるわけです。
また自己縮小が始まると逆転して過去ほど騒々しかったことに気付くのです。

だから自己拡大することよりもあるがままに暮らしていたほうが苦楽・喜怒哀楽・気疲れを味わなくて済むのです。
言い換えればその苦楽をわざわざ味わうために、わざわざ無理し苦労していることになります。
その「わざわざ」が(必要の無かった)余計・余分な事なのです。
その「わざわざ」の為に生きているようなものです。

その「わざわざ」が必然と思っただけで「真の必然」ではなかったことになります。
その必然ではない事を必然と思ってその必然を追い求めていたから自己拡大の世の中になったわけです。
そこで苦楽を味わないで済む自己縮小の実践をすれば、その苦楽が如何に騒々しい生き方であったかに気付くわけです。
もし仮に、本心から自己縮小したけれども此れまで通りに自己拡大で生きるほうが善しと思えるようなら、それは差別意識・特別意識丸出しで生き続ける特別な人生になり決して心休まることはないでしょう。

そこで宇宙・神の調和の真理からすれば、自己拡大してきたのならその反対の自己縮小することで心のバランス・調和がとれます。
すなわち良い悪いの矛盾する意識で生きているこの世・人間界だけに、一方的に自己拡大を続けるばかりの人やその自己拡大を知らないままに居る人では一方通行の片手落ちになるわけです。
だから自己拡大を味わいつくして後に自己縮小するからこそ、その裏表の真価・調和を知ることになるのです。
すなわち此れまでの自己拡大が無駄にならないのです。

そして自己縮小で無くなっていくものがあっても元に戻るだけで生きることには支障が無いのです。
例え私に軽四やオートバイが無くなっても歩いていけばいいことです。
そして歩けなくなればそこでホームヘルパーに頼めばいいことです。
・・・そのお手本として現に近所のおばさんが障害者で独り身でその通りの生活をしています。
また寝たきり老人になればそこで介護師やヘルパーのお世話になればいいのです。

そしてその節目やその都度ごとに、その有難さに気付き、その感謝の心の必要性を気付き知った時点からして、その確かな実践を始めても決して遅くはありません。 しかしそれ以上を望むのは必要としないものをねだる欲になります。
だからあとは(他力を当てにせずに)「必然ご縁」の成り行きに任せとけばいいのです。
そして真に必要とする必然があればそのご縁がありますので前もって心配することもありません。
・・・「捨てる神あれば拾う神あり」の世の中でお蔭さまとお互い様の関係があります。

だから「何とかなっていく」のもこの世のアリガタイところです。
そして成るようになっている事実が自らの意識が招いた結果に思えればそれで終わりますから執着にはなりません。
そして「何ともしがたい」死に目に陥ればそこでも執着しないで成り行き任せにしていれば心安らかな眠りにつけるわけです。

生きている中で特別に執着して「得」をした裏にその「損」も同時に抱え込んでいる事実を知る結果になります。
それが裏表のある「この世」の現実です。