孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不完全意識の者同士が同じ屋根の下で暮らすことが疎外感や孤独感や不平不満にもなっているのです。

2011年11月09日 | Weblog
私の住む所が過疎地だけに「静寂」があります。
しかしそれだけに田舎臭いし、不便ですし、夜ともなると見渡す限り電灯の一つも見当たりません。

またそれだけに自然界に囲まれていますから(静寂といっても無音ではありませんから)風の音(枝や葉が触れ合う音や落ち葉の舞い落ちる音)や色んな小鳥の声や虫の声が聞こえてきますし、時計の秒針の音まで聞こえてくるし、時たま農作業やの生活観の音が遠くから聞こえてきます。

そんな私にもロマンチックなところがありますから四季折々の風景や草花に意識を寄せることもありますし、朝の日の出とその朝焼け空や秋の夜の満月が目線の高さで見られるのも見事です。
その月夜で照らし出された積雪の風景や夜明け前の静寂とその薄明るい風景は格別なものがあります。

それも暇で退屈しているゆとりの時間があることとから過疎地ならではの風情に意識を寄せることが出来るのですが、それらを味わっているのが私一人なのが勿体ないようでまた残念なように思うのですが、そうかといって連れ添いが側にいれば世の常で良いこともあれば悪いことにもなりますから、結局は独り身の自由があって孤独があるほうが私には適しているのです。

特に私は側にいる人のご機嫌・顔色を気遣うタイプですから・・・それを真理で言えば「人に対する恐怖心」となります・・・相手の意識に巻き込まれやすいのです。
だから(仕事や家庭でも)自分がしていることで人様が良い思いをしているほうが私には気楽でそのほうが嬉しいのです。
だから私が様々な自然界の風情に意識が行っている時に連れ添いが同じ意識であれば気分は上々ですが、それに反する意識でいられると虚しいというよりも相手を気遣うほうに気が取られて(巻き込まれて)何とかしなければとなるわけです。

だから連れ添いが寝ているときに私だけが夜明け前の静寂や月明かりに照らし出されている風景を見ることにでもなれば(その気にはなれませんが)、互いの意思の疎通がないことからして、そばに親しい人がいるのに何故か孤独感を味わうことになりますから余計に気苦労することになります。
すなわち不完全意識の不調和の者同士が同じ屋根の下で暮らしたり同じ傘の中で共に居ることが(潜在的)疎外感・孤独感や不平不満になっているのです。
だから思うがままに自由に(動ける)暮らせる孤独のほうが(人様に巻き込まれなくて)呑気気楽なわけです。
だから(過去も現在も)家族には自由にさせていましたから、私にもその見返りの自由があったわけです。

ところが大勢の人に囲まれている形があっても意識の疎通がないのは事実ですし、自己主張し合い、私は正しいと否定反発されることもあることから、大勢の人の中でいるのに疎外感や孤独感になっているのです。
だから何度か書いているように否定反発のない調和の意識で語り合えたり、共に行動できれることが少しでもあれば、その時に何か格別なことがなくてもそれだけで十分になるのです。
・・・見える「形」ではなくして<意識>が重要なわけです。

だから夜明け前の静寂を静かに味わえる意識の者同士がその静寂を味わえる事になればそこに「至福」の時があるのです。
月夜に照らし出された夜の自然界を愛でる者同士がいればそれが至福にもなるのです。
・・・あるがままが至福になるのです。

ところが日夜刺激に満ちている生活をしている人には「かりそめ」で終わる可能性があります。
また私のように過去が変化刺激に満ちていたのと、また独り身で味わっていて共感・共鳴が伴わない物足りなさや、何度も見ているので次第に味気ないことになっています。
・・・私の場合は静寂と言うよりも人の気配がしないので気楽なだけかもしれません。

とにかく特別が好きな人には不向きです。
その特別がないから気楽なのも事実です。
だから「普通」に生きていればそれで十分なわけです。
しかし生活水準の標準ではありませんで、過不足のない普通、すなわち良い悪いで判断する必要がない普通です。
その為にも執着しない、そして(何でもないような)素朴を親しみ十分に味わう事に意味があるのです。
その素朴は自己満足につながらないから、その不平不満にもならないのです。

如何にも悟った風に言えるのも、この世の不完全な形とその人間関係をすぎるほどに味わってきたからこそ言えることです。
すなわち「特別」を味わい尽くした後に<普通>を味わい、その普通の真価を知ることになれば、その普通が宇宙・神の愛であることに気付き、この世から特別が消えて宇宙・神・万物皆が普通・当たり前になって「差」の無い<すべてがひとつ>の意識になれるのです。