良い悪いで判断している限り自己満足と不平不満が出てきますから、自惚れ・プライド・自己主張・自己顕示、そして名誉名声肩書きの権威権力(欲)、それらを守り闘う守り意識の潔癖完璧・正義感、そして不安心配・怒り恐れ・やきもち嫉妬・仇討ち仕返し・復讐制裁・やけくその破壊意識までもつながって出てきます。
その破壊意識を持っていても出ていないときがありますから、それを勘違いして私は持っていないと自信ありげに思う人が多いようですが、子供を叱ることが既に仇討ち仕返しや破壊意識になっているのに気付かないだけです。
だから「持っていない」のではなくて、今は<出て>いないだけですから、いつ出てくるやれ判りません。
だから初期の不平不満が出たときに「気付く」ことが重要なわけです。
そして「執着」しないことです。
だから気付かなければ執着にもなりますから、つい子供を叱ることにもなり、また力ずくで抑えることにもなります。
それが子供に反発反抗心を植えつける結果にもなり更に深刻になっていきますが、それも元は親の責任です。
私が「しがらみ」から離れ、過疎地で世間離れしたように暮らしているのも結果的には逃避していることになります。
それは不完全意識が「出る」ことが自他共に(得にならないで)損なだけだと判ったからかもしれません。
また人様が「出して」いるために私が影響されてその中に巻き込まれるのがいやだからです。
そして己の自信と自力とその自己責任・自己結果の独自独歩で生きることが間違った生き方とは思っていないからです。
そして万が一にも破壊意識が出ても現在はその原因とその結果が犬や猫が相手ですからめったになく、また一時的に感情が高まっても直ぐに治まり執着することも根に持つことも短時間ですみます。
ところが相手が人様になるとその感情を裏に隠すことになり、その不満・反発反抗心・敵対心が根強く残りそれが執着になりやすいのが私にありますから、そうなれば結果的に面白くも無いことに囚われて自分が損することになるからです。
だから世間の中で暮らすよりも(同じ傘の下でいるよりも)世間離れしたほうが(自前の傘のほうが)私には都合がいいのです。
しかも自分の傘の中に人様を招き入れようとすることが無理であり無駄であり余計な事になるのを十分知ったからです。
しかも自分を守る傘がいらなくなる意識体「命・意識」になることが先決だと判ったからです。
しかもそうなる前に「雨やんで傘を忘れる」ような意識になることがないように注意する必要もあります。
その為にも食って寝て糞をして当たり前に生きているだけでも感謝の心になる意識が必要になります。
ところで持っている不満を我慢して貯めていると堪忍袋の緒が切れて一気に吹き出るときが必ずあります。
それが世間でよくある「何でそんなことで」「大したことでもないのに」と言うような、現実に現れた原因の一端を見ただけで判断しているから、その常識的な判断からはるかに超えた形の騒動から自殺や事件犯罪までありますが、それがいつ我が身や身近な人に起こるかもしれないのが現在です。
たとえそれを乗り切っても精神的なことの症例症状(うつ病や痴呆症)が出る可能性もありますし、自らがそうならなくても身近な人がそうなってそれに巻き込まれて難儀する可能性も十分あります。
そして最終的には老後の生き様や死に目に遭うときの苦しみに現れるようです。
そんな人的なことだけではなくて色んな災害が所かまわず起きている現実も知っていますから、人的なことも含めた予知できる有事に対処するだけの心つもりで暮らしています。
・・・そのことは何度も書いているので省略しますが・・・上の位置で暮らしているとその落差が大きいが、落差のない位置で暮らしていればそのままの自力の暮らしが続くだけになり、世間の有事が私には有事にはならないで済みます。
そして死を怖がることなく、災害・事故であれ重病であれ、如何に自然死に近い常態で死んでいくかに意識を使っているのです。
そして私の自己満足ですが・・・現在の過疎地暮らしも時代の先駆け意識・先取りの感性から始めた部分があります。
だから完全真理を知る以前から、執着のない、無理のない、当たり前の素朴さを活かした生活が始まっていたのです。
しかも宇宙・神の愛のお仕組みに任せた必然ご縁の「成り行き」からなったことですから更に申し分ないわけです。
しかもそれ以前からこうして私の知った事を文書にして伝えていたのも(偶然ではなくして)「必然」だったわけです。
その破壊意識を持っていても出ていないときがありますから、それを勘違いして私は持っていないと自信ありげに思う人が多いようですが、子供を叱ることが既に仇討ち仕返しや破壊意識になっているのに気付かないだけです。
だから「持っていない」のではなくて、今は<出て>いないだけですから、いつ出てくるやれ判りません。
だから初期の不平不満が出たときに「気付く」ことが重要なわけです。
そして「執着」しないことです。
だから気付かなければ執着にもなりますから、つい子供を叱ることにもなり、また力ずくで抑えることにもなります。
それが子供に反発反抗心を植えつける結果にもなり更に深刻になっていきますが、それも元は親の責任です。
私が「しがらみ」から離れ、過疎地で世間離れしたように暮らしているのも結果的には逃避していることになります。
それは不完全意識が「出る」ことが自他共に(得にならないで)損なだけだと判ったからかもしれません。
また人様が「出して」いるために私が影響されてその中に巻き込まれるのがいやだからです。
そして己の自信と自力とその自己責任・自己結果の独自独歩で生きることが間違った生き方とは思っていないからです。
そして万が一にも破壊意識が出ても現在はその原因とその結果が犬や猫が相手ですからめったになく、また一時的に感情が高まっても直ぐに治まり執着することも根に持つことも短時間ですみます。
ところが相手が人様になるとその感情を裏に隠すことになり、その不満・反発反抗心・敵対心が根強く残りそれが執着になりやすいのが私にありますから、そうなれば結果的に面白くも無いことに囚われて自分が損することになるからです。
だから世間の中で暮らすよりも(同じ傘の下でいるよりも)世間離れしたほうが(自前の傘のほうが)私には都合がいいのです。
しかも自分の傘の中に人様を招き入れようとすることが無理であり無駄であり余計な事になるのを十分知ったからです。
しかも自分を守る傘がいらなくなる意識体「命・意識」になることが先決だと判ったからです。
しかもそうなる前に「雨やんで傘を忘れる」ような意識になることがないように注意する必要もあります。
その為にも食って寝て糞をして当たり前に生きているだけでも感謝の心になる意識が必要になります。
ところで持っている不満を我慢して貯めていると堪忍袋の緒が切れて一気に吹き出るときが必ずあります。
それが世間でよくある「何でそんなことで」「大したことでもないのに」と言うような、現実に現れた原因の一端を見ただけで判断しているから、その常識的な判断からはるかに超えた形の騒動から自殺や事件犯罪までありますが、それがいつ我が身や身近な人に起こるかもしれないのが現在です。
たとえそれを乗り切っても精神的なことの症例症状(うつ病や痴呆症)が出る可能性もありますし、自らがそうならなくても身近な人がそうなってそれに巻き込まれて難儀する可能性も十分あります。
そして最終的には老後の生き様や死に目に遭うときの苦しみに現れるようです。
そんな人的なことだけではなくて色んな災害が所かまわず起きている現実も知っていますから、人的なことも含めた予知できる有事に対処するだけの心つもりで暮らしています。
・・・そのことは何度も書いているので省略しますが・・・上の位置で暮らしているとその落差が大きいが、落差のない位置で暮らしていればそのままの自力の暮らしが続くだけになり、世間の有事が私には有事にはならないで済みます。
そして死を怖がることなく、災害・事故であれ重病であれ、如何に自然死に近い常態で死んでいくかに意識を使っているのです。
そして私の自己満足ですが・・・現在の過疎地暮らしも時代の先駆け意識・先取りの感性から始めた部分があります。
だから完全真理を知る以前から、執着のない、無理のない、当たり前の素朴さを活かした生活が始まっていたのです。
しかも宇宙・神の愛のお仕組みに任せた必然ご縁の「成り行き」からなったことですから更に申し分ないわけです。
しかもそれ以前からこうして私の知った事を文書にして伝えていたのも(偶然ではなくして)「必然」だったわけです。