孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自己拡大は時代の進化をもたらしますが、自己縮小は「意識の進化」になります。

2011年11月18日 | Weblog
私達は「良い悪い」で判断していることから、現れた結果事実が「ひとつ」なのに「二つの思い」に分けて判断しています。
その「思い」は己の中にあることであって皆にあることではありません。 だから不完全だと言われる訳です。

そして泥棒に入られるとその泥棒が原因に「思い」その対策を強化したり、その泥棒を憎む事になりますが、それが「きっかけ」で原因である「意識の世界」精神世界を学び知る実践になることは先ずありません。

また入学試験や就職試験のときに神社仏閣や教会に行って神仏に祈願する人がいますが、しかしその神仏の真実を完全に知っているわけではありませんで、ただその神仏を「信じて」いるにしか過ぎません。

その「信じ」ている神仏に、泥棒が入らないように頼んだり試験の成績が良くなるように祈願しても、必ずしもその願いが叶うことにはなりませんが、それは「不完全」だからです。
しかし完全な宇宙・神が当たり前の如くに完全な形結果を創造し続けているのは「完全」だからです。
だから完全から完全が生まれても、不完全からは不完全しか出てこないのです。
だから不完全な神仏に祈願しても不完全な結果になるだけです。

ところが不完全な神仏に祈願したから災難を免れたり試験に合格したと思う人がいますが、それが必ずしも神仏のお蔭だと真心から思う人は先ずはいないでしょう。
何故なら「信じる」裏には必ず「不信」があるからです。
もしその不信がなくして信じ切っていれば、それは妄信や自己陶酔や洗脳されているからです。

また「信じている神仏」に祈願したら願いは叶うと思っている信者にもその不信感は必ずあるはずです。
何故なら自分の「願いが叶った」ことが無いからです。
しかし願いが叶ったと「思い込む」ことはできます。
すなわち信じることは思い込むことにつながっているから要注意なのです。

前回にも書きましたが受験生が神仏に祈願することで合格することが出来るならば祈願した全員が合格しなければなりません。
しかし現実は違っていますから不完全になるわけです。
しかしそれを不完全な結果になることも「ある」と言うのであれば、有る時と無い時がある矛盾・不完全がありますから、それは完全な真実を言っていることにはなりません。
・・・「真実」は矛盾も妥協も言い訳正当化もない事実だけの絶対完全だからです。

しかし不信感でもって祈願するという、その変な形・矛盾を何故持っているのでしょう。
それは自信・自力の精神力が弱いからです。
そんな弱い精神力の人達を(結果的に)惑わしたり、付け込まれたりして、その人達を思い通りに操り、人集め金集めの道具に使い、その勢力拡大に使おうとしているのが信仰宗教に見られます。

(結果論ですが)
完全な神・愛を説くことで組織拡大・勢力拡大すると矛盾が出てきて実現させることは出来ません。
そこで真実の神の一歩手前の不完全な神仏を本物のように見せ掛け教えることでそれを信じ込ませれば、その無知な信者を宗教の思うがままの「使い走り」の手足に使えるわけです。

信仰宗教を否定しているのでは有りません。
信仰宗教も人類の意識の進化の段階に必然だから出てきたことです。
ただ実在する真実の完全な神を知らないから教えることも出来なかったのです。
そこで(初めてで最後となる)完全な宇宙・神・愛を解く完全真理が必然で出てきたのです。

ところがしかし、その矛盾する過去の神仏を教えていた信仰宗教が根強く残っているのと、その信仰や宗教に不信感を持っている人も多いことからして、その完全真理が同類に思えるのか、世間になかなか普及拡大していかない一つの要因にもなっています。
しかも此れまでの自己拡大が時代の進化に思えていたのですから、その反対の自己縮小で「意識の進化」を説く完全真理になかなか馴染めていないのも事実にあります。

それでも「真実」を知ればそれを否定反発排除することにはなりませんから(出来ませんから)徐々にでも広がっていきます。
その「真実」を真実であると確信自信に至るにもその自信・自力の精神力・意識力が必要です。
その手助けの一つにでもなればこのブログも無駄ではなくなるのです。
そして意識の進化に乗り遅れないで下さいと(元は神である)皆様に願うばかりです。