孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「調和の仕組み」「気付く仕組み」「必然の仕組み」「過ぎた意識・執着を終わらす仕組み」があります。

2011年11月15日 | Weblog
宇宙・自然界は完全なだけに「調和」の仕組みがあります。
だから特別な過ぎたことには絶対になりません。
だから完全なままが延々と続くことが可能になっているのです。

弱肉強食とも言われることも調和・バランスで起きている当たり前の仕組みです。
巨大隕石が落下したり原子爆弾・核が爆発しても元道理になるのも調和のその仕組みが元からあるからです。
世界各地で原油汚染が起きてもやがて収まるのも人力以外の調和の仕組みがあるからです。
天変地異が起こるのも地球(意識体)自らの調和を(限度ぎりぎり)維持するために必然で起きている仕組みです。
万物・人間にそれぞれの違った役割使命があるのも調和の仕組みからです。

それと同じように人間関係・人間意識の中にも「調和」の仕組みが起きています。
それが「良い」ことも「悪い」こともあるという裏表の原因とその結果です。
だから自己満足(幸福)の裏に不平不満(不幸)があるように、片方に偏らないようになっています。
だから自己満足が強ければその裏の不平不満も強いものがありますが、当然その逆も同じようにあります。

また過ぎた特別な事を成そうとすると「苦労」が伴うのも<調和の仕組み>で起きていることです。
そうでなければ終止がつかなくなり一気に破壊(自己破壊・他者破壊・自然破壊)が進むからです。
だから自然界の如くに無理することのない「あるがまま」の普通・調和でいれば安心安全の穏やかな生き方になるのです。

また調和を乱す「過ぎた意識」に気付かせる仕組みの<鏡現象>と言われる形があります。
その例えに、親が子に無理強いすると今度はその子供が親に無理強いする(ダダをこねる)ことになっています。
また感謝の心がない人に有事が起きて困った事になることからしてそこで感謝を学ぶことにもなっています。
そして執着するほどに問題解決が難しくなるのも、最初から執着する必要がない事を学ぶためです。
だから学び知り気付くことが重要になるわけです。

高い位置でいるほどに落ち込みも大きくなりますが、普通でいれば穏やかです。
すなわち高低のない中心に位置するからです。
それでも高い位置に執着するとそれだけ苦労も続くのですが、それを乗り越えて頑張り続けても、その苦労の連続から虚脱感に陥ることがありますが、それも(潜在的に)元に戻ろうとする仕組みが起きているからです。

そこで元に戻ることが出来れば二度と自己拡大することにはなりませんが、そこで過去の栄華に執着するとまた頑張り続ける事を選びますから、それも結局くたびれ損で終わり、その過去の栄華を思いに生きるだけになり、過去に生きている哀れな意識の人で終わりますが、(それを世間に隠していても)その事実を一番よく知っているのが当人と言うような皮肉で情けない結果になります。

その世間に注目されなくなったその落胆空虚とまた人様から見放されたと思い込むその孤独感を自が背負って生き続ける精神的な負担は計り知れません。
だからそれが原因で(逃避になる)うつ病や、(すっかり忘れる)痴呆症や、(人に見放されていない証として常に付き添う人が側にいる)要介護の生活にもなっているのです。

また思い込みが過ぎるとその結果が出てきます。
だから不幸と思い込むと、その通りに本心から不幸に思えます。

それと同じく用心しすぎたり警戒しすぎたりするとそれが事実となる結果が出てくることがありますが、それも先々の不安心配・恐れ恐怖の執着を終わらすために起きている(元に戻す調和の為に起きている)必然の仕組みになります。
すなわち「今」を生きていないで<想像の世界>で生きていることに早く気付かせるために起きる前兆の仕組みですが、それがお仕組みだと気付ける人には概ね大きな事には到りませんが、その前兆を用心・警戒していた「お蔭」だと思い込み信じ込んでますます変な自信まで持つと、その意識力が災いを呼び込むことになって(仕組まれて)先には思い込んでいること(詐欺・盗難・火事や事故死や人災や天災による災害死や病死など)が現実となるように仕組まれる場合があります。
・・・人間が意識で生きている事実に気付かせるために必然で起きています。

また自信・自力も無いのに「私は大丈夫」とかで見せ掛けているとその裏が出てくることもあります。
また不信感が強いのに「信じている」と見せ掛けていると裏が出てきます。
それが表も出れば裏も出るという(調和の為の)仕組みの中のその裏が出る「裏切り」と言われる形です。
すなわち不信感を持っていたのにそれを隠しておいて、如何にも信じているかのごとくに見せ掛けていた(勝手に思い込んでいた)から、それに反する結果になったときに(自分勝手に)それを裏切られたように思えているのです。
・・・信じることは自力でも自信でもありません、他力頼みの欲になります。

本当に自信・自力・確信・絶対があることなら、その成り行きで現れた事実だけを見ていますから、その結果を良い悪いで判断することにはなりません。 だから事実(表)だけなら「裏切り」(裏)は元から無かったことなのに、それを如何にも有ったが如くに口に出す人は(信じる振りをしていた裏のある)「偽善者」にあたります。

すべては意識にあり、その意識で生きているのが人間であり万物や宇宙・神でもあり皆が同じです。
ただ問題なのが人間の意識に「裏と表」が有って、それを使い分けている矛盾する不完全意識を持っていることだけです。