孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自己拡大し続けたところで限界を知り、そこから脱却する自己縮小によってその真価を十分に味えます。

2011年11月21日 | Weblog
私は高卒後総合食品問屋に就職して丁稚奉公並みに従事した後父親が死去したのでその家業である米屋を継ぎました。
その当時の米屋は食糧難から「配給制度」でしたから、タバコや塩と同じように専売でしたから営業活動といえば「ヤミ米」の買出しぐらいでした。

その食糧難が終わり飽食の時代になったころに米屋だけではもの足らずにいると明治牛乳の営業マンが飛び込みで来て牛乳販売を勧めてくれたのが縁で牛乳販売所を兼業で始めました。
その顧客獲得は専属の販売促進者(勧誘員)が定期的に来ていましたので、そうなると他店の顧客を新参が奪い取るような格好になりますから同業者に「にらまれて」後ろめたい気がしていました。
しかしその頃に紙パック牛乳が登場したのでそれを先取りして(同業者に気がねなく)乱立気味の食品スーパーで新規販売促進に関わることでやりがいを見出していました。

そして先取り意識から始まった趣味のビデオ撮影が面白くなり、それが新たな職業になると見越してビデオ撮影制作の事業として確立させることになりましたが、その思惑通りに事が進んでいきましたので、やがて牛乳販売を甥に譲り、米屋を妻に任せて本腰でビデオに挑みましたので、此れこそ我が天職と自惚れるほど達成感がありました。

その牛乳販売もビデオも時代の流れに乗っただけですから苦労せずに、営業しないままに拡大進化してきました。
ところがビデオが一般化するほどに同業者が増え始めましたが、後発だけに資金もコネもあり営業活動にも熱心ですから、技術は未熟でも押され気味になりました。
そこで無理することなく成り行きに任せてていましたが、やはり後発組みが資金力や人脈・コネ・接待力でのし上がって来ました。

その天職とまで思ったビデオがその思惑からハズレた時には、(私には絶対に無縁なはずだった)霊界・想念の世界に馴染んでいたことや(思いがけない仕組みで)過疎地で暮らすことを意識しているときでしたから、乗り換える舟が既に用意されていたも同然でした。
その乗り換える舟が先方から来る必然ご縁ばかりでしたから、それが結果的に「来るものは拒まず」の否定反発しないことになり、また自分を超えた無理をしないことで、それが結果的に「去るものは追わず」になりました。

いつも通りに前置きが長くなりましたが・・・
あれこれと自己拡大を続けてきたことがあるからこそ、今の自己縮小の真価が心に届いたのは事実です。
それがもし自分の限界を無理して他力依存(資金やコネ)で乗り越える事を繰り返していれば自己縮小のご縁もないままに(惨めな倒産で)終わったかもしれません。

自惚れになるかもしませんが、自力でやる事に面白さや楽しさがあるのです。
他力を使うことは自分を超えた欲望・野望を叶えるための偽善手段だと思っています。
だから人生を楽しみたい私にすれば自力(独自独歩)の創意工夫でやることに意味があったのです。
・・・だから先取りの「新たな」ことをし続けてきたともいえます。

その自力に限界を感じるとそれ以上のことを味わえませんから、それとは別件の新たなことに挑むのが新たな初心に戻れることからして私には都合が良かったのです。
だから過去のものを惜しげなく捨てることの繰り返しでもありました。
またその限界に達する前に次の新たなことに興味を示していたのも私には都合が良いことになっています。
すなわち私の本分である「知りたがる」「やりたがる」その意識が私自身に役立ったわけです。

そしてつながった「見えない世界」「完全真理」にはその「知りたがる」「やりたがる」ことに限界がありません。
それが<気付き>であり、この世に「気付く」限界はありません。
何故なら「知らない」ことが無限にあるから「気付く」ことも無限にあるはずです。
また気付きの中にも実践していたからこその「気付き」が多く含まれます。

そしてその「気付く」ことに生き甲斐やの充実感めいたものが含まれています。
それが「人間は意識で生きている」という証だと思います。
だから金銭物質に恵まれなくても「生きている価値」「生きる真価」を見出したような結果になるのではないでしょうか。

ただそれが「誰も知らない」事を知ったという自己満足・自惚れになる可能性があるのです。
だから「執着」しないことにしています。
だから「知った」事の足跡をブログに残すことで満足して終わらしています。

此れが最後の完全真理から他の舟に乗り換えることはありませんが、それでも<先取り>意識は健在ですから、できれば「調和」意識の者同士が寄り集まり各々が自力を出し合い「共に生きる」ことになることを先駆けたいのです。
そうすれば自他共に自分の自力を超えたことが無理なくできるようになるし(不完全意識では問題があるが)、その楽しさ喜びも「共に」味わえる至福がありますから、今の独自独歩の孤独な生き方からも「さようなら」できます。
しかしこれも必然ご縁のお仕組みが起きない限り無理なことですから、やはり「待つ」しかありません。


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