孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「あいまい」には理念・信念もなく、肯定も否定もなく、分け隔てる差もなく、事実だけになります。

2011年11月06日 | Weblog
私が宇宙エネルギーに取り組んでいるときに聞いた話ですが、アインシュタインが日本を訪れたときに言ったことに、日本人の「あいまいさ」によって世界をリードする時が来ると予言的に言ったそうですが、どうもそれが国家政治経済を意味したものではなくて日本人の精神的な面から言われたそうです。

その例えに伝統風習の八百万の神々を信仰しながらもその他諸々の宗教も受け入れているその「あいまいさ」に驚いたようです。
その「あいまいさ」が今の完全真理で言うところの「良い悪い」で判断して決め付けないことにつながりますし、優しさ思いやりにもつながる面もあるし、また一つの事に執着しないで済むことにもなります。
・・・だから完全真理が西洋では無くて日本から始まったことにも意味があったわけです。

また完全真理に付随して説くところの自然体や自己縮小や素朴に生きている民族が世界中に実在している関係から言えば、それら民族から完全真理が始まってもおかしくないはずですが、ところがそれら民族は生まれながらにして元々からその生活を普通にしているわけですから、完全真理が説くところのこの世の不完全な形やその人間関係の矛盾を多く味わい知り尽くしていません。
・・・だから文化文明が栄えている日本から始まるのが適していたことにもなります。
しかしそれにしても完全真理の理解者やその実践に取り組んでいる人たちがあまりにも少ないのが未だに続いています。

その原因にあるのも「あいまいさ」であり、中途半端で、頑固一徹でもないし、画一的でないこと、意思統一できないことにありますが、それを裏返せば国家的思想や宗教や国家的理念・信念・主義を持たずにして「あいまい」に生きてきた事になります。
だから国内で起きた大きな変化といえば明治維新くらいなもので、大した革命も改革も無く(一部の指導者が入れ替わるくらいで)、また戦中に鬼畜米英と教育されたり天皇陛下万歳と特攻して行ったけれど、その太平洋戦争に敗戦しても、その「あいまい」によってテロ活動や地下組織で対抗抗戦することも無く、戦勝国のアメリカの思惑に従うことで戦後復興が進んでいきましたから、敗戦国家の中で一番めざましい発展を成すことが出来たのかもしれません。

だから理念・信念・思想・哲学や宗教・精神世界などの見えない世界を「あいまい」にしておいて、もう一つ「あいまい」にしている目に見える実生活を先ずは優先することになったのかもしれません。

ところがその「あいまい」を精神世界に活かせば完全真理に通じるところがあります。
すなわちOKでもあるようでNOでもあるようで、白と黒に決めること無く、すなわち良いも悪いも定かでなく、肯定も否定も定かでは有りませんから、結果的には事実だけを見ていることになっていますし、また「あいまい」には分け隔てる差も定かでありません。

その定かでも、定かでもないところの、どっちつかずですから、あやふやで、何ともし難い、どうしようもない、ところがあります。
だから複雑で、ややこしくても、それを思考錯誤しなければ「執着」にはなりません。 しかも執着したところで定かにはなりません。
だから執着する必要も無くなりますから、表れた事実を気にしないままに忘れることができます。
そして満足しているようでもなく、また不満になっているようでもないことからして、どっちでもないことになり、そこに特別がないことからして普通になります。

ところがしかし、日常生活の中で良い悪いで判断することが当たり前の常識意識になっていますから、その「あいまい」な民族性意識が精神世界・意識の中で死んだも同然になり効をなしていませんから、なんだか勿体ないことをしています。

そこでその「あいまいな」民族性があるということは既に潜在意識の中に実在しているはずですから、その「あいまい」を表に出せば「決め付ける」だけのその価値・価値観が見当たらなくなりますから、完全真理で言うところの「判断」が加わらなかった「あるがまま」と同じになり、何事にも平然となり全てが普通に思える意識と同然になります。

そしてこの世で生きながらにして完全意識になることが不可能であっても・・・あいまいな日本人に生まれて良かった、日本から始まる完全真理を知って良かったとなり、そして普通に暮らせるだけでアリガタイことになり、人間に生まれて良かったと思えるようになれば、不完全意識を持っている事に変わりはなくても、この世が地上の天国にも思えるその意識になれるのです。