此れまでの自己拡大で味わってきた苦楽・喜怒哀楽が多かっただけに、今の自己縮小での苦楽のない生活が味わえているその真価を知ることにもなりました。
すなわち自己拡大が「得」で自己縮小が「損」ではなくて、自己拡大が間違いで自己縮小が正解だと実感で味わっているのです。
寒い冬場に一枚の着衣が増えれば暖かくなります。
しかしその一枚の着衣が無くても此れまで生きる事に不自由していなかったのは事実です。
だからその一枚の着衣を「欲張る」必要はないのです。
また今あるものを使っているからこそ愛着が出てくるわけです。
だから余計にもつ必要も無いのです。
だから必然ご縁で恵まれ与えられるまで「成り行き任せ」で待つことも出来るわけです。
それだけに恵まれ与えられる結果になれば(中古でも)それが喜び感謝のアリガタイことになるのです。
だから我が子に寒い思いをさせたくないことから余計な稼ぎに出かけることよりも、今のままにその子供に寄り添ってそのままに暮らしているほうが親子の心が温まるのです。
だから無理して頑張らなくてもよかったのに、それを家族のためにといって頑張っている両親の思いの中に実は自分も得をしたい思いや親の見栄や世間体・プライドを保つための欲な思いが先立っているのです。
しかし今となっては仕方がありません・・・ね。
身近な家族に不自由させるわけにはいきません・・・ね。
しかしそれも我が身の欲から出ている事だとは気付きません・・・ね。
何故なら、我が身が貧しい思いに至っていないのならば同じように家族に貧しい思いを「させている」とは思わないはずです。
しかし親が貧しいと思っていなくても、子供が不足に思っていればその子の思いですから、親といえどもどうしようもありません。
しかし子供の心に何らかの不満・欲が出るのは(原因は)先程の着衣の事例のように、子供の事と言いながらも裏では親の欲目が先に出ているからです。 だから「子は親の鏡」といわれるわけです。
しかし今となっては仕方がありません。
だから自己縮小するしかありません。
しかしそれに従わない者まで巻き込むことは出来ません。
だから各々の好き勝手に任す自己責任の自由しかありません。
しかしそこで余計な口出し手出しすれば自らがそれに巻き込まれますから余計な事をせずにほっとくしかありません。
そうなれば同じ屋根の下で暮らしていても各々が独自独歩の自由で生きることになります。
そして成り行き任せの中での必然ご縁があればその役割を果たすことが出来ればそれでいいのです。
そうなれば独自独歩であっても孤独ではなくなります。
しかしそうは簡単に問屋が卸してくれません。
・・・そのことは何度も書いているので省略します。
それでも「やらなければ」何も始まりません。
・・・やらなければ何も気付けないままに終わるかもしれません。
そこで「欲張る」ことがなければ自ずと自己縮小になっていくのがこの世の仕組みにあります。
しかし「負け犬」ではありません。 気楽に生きる事を自らが選んだ結果が出ているだけです。
そして苦楽のない「楽」の真価を知ることになります。
だから貧乏であっても、心は「気付き」で満ちてきます。
だからそれ以上の事を欲張ることもなくなりますから更に自己縮小が進みます。
すなわち自己拡大が「得」で自己縮小が「損」ではなくて、自己拡大が間違いで自己縮小が正解だと実感で味わっているのです。
寒い冬場に一枚の着衣が増えれば暖かくなります。
しかしその一枚の着衣が無くても此れまで生きる事に不自由していなかったのは事実です。
だからその一枚の着衣を「欲張る」必要はないのです。
また今あるものを使っているからこそ愛着が出てくるわけです。
だから余計にもつ必要も無いのです。
だから必然ご縁で恵まれ与えられるまで「成り行き任せ」で待つことも出来るわけです。
それだけに恵まれ与えられる結果になれば(中古でも)それが喜び感謝のアリガタイことになるのです。
だから我が子に寒い思いをさせたくないことから余計な稼ぎに出かけることよりも、今のままにその子供に寄り添ってそのままに暮らしているほうが親子の心が温まるのです。
だから無理して頑張らなくてもよかったのに、それを家族のためにといって頑張っている両親の思いの中に実は自分も得をしたい思いや親の見栄や世間体・プライドを保つための欲な思いが先立っているのです。
しかし今となっては仕方がありません・・・ね。
身近な家族に不自由させるわけにはいきません・・・ね。
しかしそれも我が身の欲から出ている事だとは気付きません・・・ね。
何故なら、我が身が貧しい思いに至っていないのならば同じように家族に貧しい思いを「させている」とは思わないはずです。
しかし親が貧しいと思っていなくても、子供が不足に思っていればその子の思いですから、親といえどもどうしようもありません。
しかし子供の心に何らかの不満・欲が出るのは(原因は)先程の着衣の事例のように、子供の事と言いながらも裏では親の欲目が先に出ているからです。 だから「子は親の鏡」といわれるわけです。
しかし今となっては仕方がありません。
だから自己縮小するしかありません。
しかしそれに従わない者まで巻き込むことは出来ません。
だから各々の好き勝手に任す自己責任の自由しかありません。
しかしそこで余計な口出し手出しすれば自らがそれに巻き込まれますから余計な事をせずにほっとくしかありません。
そうなれば同じ屋根の下で暮らしていても各々が独自独歩の自由で生きることになります。
そして成り行き任せの中での必然ご縁があればその役割を果たすことが出来ればそれでいいのです。
そうなれば独自独歩であっても孤独ではなくなります。
しかしそうは簡単に問屋が卸してくれません。
・・・そのことは何度も書いているので省略します。
それでも「やらなければ」何も始まりません。
・・・やらなければ何も気付けないままに終わるかもしれません。
そこで「欲張る」ことがなければ自ずと自己縮小になっていくのがこの世の仕組みにあります。
しかし「負け犬」ではありません。 気楽に生きる事を自らが選んだ結果が出ているだけです。
そして苦楽のない「楽」の真価を知ることになります。
だから貧乏であっても、心は「気付き」で満ちてきます。
だからそれ以上の事を欲張ることもなくなりますから更に自己縮小が進みます。