孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

事を成して自惚れる満足や自信では無くして、不完全に気付くその実践が自信自力となっているのです。

2011年11月01日 | Weblog
自然界の進化の過程(成り行き)で人間が誕生したのですから、その自然界が親同然であり、先生・先輩にもあたるわけですから、その自然界と同じように必然ご縁のまま成り行き任せに生きていればそれでいいわけです。
そしてまたその自然界の犠牲によって生きていることが「アリガタイ」ことになります。
その人間に限らずとも食って寝て糞をすることは皆同じです。

ところが人間は「価値観」を持っているがために、食って寝て糞をしながらただ生きているだけでは物足りなくなったのが原因で、その親とも言える自然界の資源を我が物顔に取り尽くしながら(破壊しながら)その価値観を満足させてきました。
またその価値観の中にダイヤモンドなどの「希少価値」があることも付け加えておきます。
またそれら資源を欲しがる侵略戦争にもなって大勢の人が犠牲になっています。

ところで私は戦中生まれの戦後育ちですから、田舎の街中に荷馬車や荷車や自転車のサイドカーが活躍していた時期があります。
そして国鉄はいつも満員ですし電車やバスも賑やかでした。
だから一家に一台の自転車があればそれが特別だった時期もあります。
そして農作業も殆どが人力でしたから田植えや稲刈りは親戚中が手伝うときもありました。
お風呂も夏場はたらい桶を使っての行水が多く、肌寒い頃からは時たま薄暗い銭湯に行くくらいでした。
それでも不足に思っていなかったことは普通かそれ以上だったことになります。 

もちろんテレビや洗濯機や炊飯器などの電化製品さえなかった時期もあります。
そして食糧難でしたからお腹をすかしていたのは記憶にありますが、歳の差に関係なく子供同士が集って楽しく遊んでいましたが、その多くは山や川や海などの自然界の中ですし、その山で切り取った竹や小枝で作った手作りの遊び道具を使うなどして遊んでいたのが楽しかったので、空腹が気にならなかったのは事実です。
そして何よりも今は排水溝になっている小川に自然がいっぱいあったことです。
だから水遊びなどの水辺で遊ぶことにも事欠かないし、生け捕った魚が食卓を彩る事にもなっていました。
もちろん遊びがてらに行った河川や海岸でも捕っていたし、近くの山で燃料となる枯葉や枯れ枝や食卓を彩る山菜を収集して持ち帰っていました。

だから物不足・金不足が普通のその当時でも、数知れない満足を味わい楽しさを味わい自由を味わいしていたのですから、今思えば地上の天国を味わっていたのです。
そしてその後の高度経済成長期にもそれなりに威勢良く生活していたのですから、その時も地上の天国だったわけです。
詳しくは(yahooブログ)・・・「がばい婆ちゃん」の昭和(戦中・戦後・高度経済)と私・・・を参考にしてください

ただいつの時も(私から見れば)、欲におぼれたり自我・感情に支配されている人との人間関係に問題が少しあっただけです。
それでも執着しなかっただけに巻き込まれることも無く、その分だけ呑気気楽で好き勝手な自由気分を味わっていたようです。

そして現在の過疎地暮らしも、昭和の物不足よりも恵まれているのだから、昭和の時の「天国」よりも更に上を行く天国を味わっている事になりますから、その途中で味わった高度経済成長期の満足が消えていても、それが原因で不足に思うことにはなりません。
なんたって中古の軽四と単車があり、自家用のお風呂もあり、廃品の洗濯機や扇風機や電気コタツがあり、廃品だった炊飯器やガスレンジが使えなくなってからは格安な新品をネットで購入出来ましたし、最近では一万円程度の小型電子レンジを購入したばかりですから、この世で生きていくための道具にも不自由していません。

そして必要とするものがお古でもアリガタイし賞味期限切れ寸前や売れ残りの値引き食品もアリガタイことになっていますから、衣食住にはなんら事欠いていませんし、年老いても健康に変わりは無く、しかも健康診断を受ける必要性の無いことにも気付いていますから、この安らかな思いのままに過ごして、死ぬ時が来たら(そのままにして)自然死を望むだけです。

と言うように精神的に成長している事を(自惚れでは無くして)(真理に照らし合わせて)我が身で持って確信できるくらいですから、それが自信にもなり自力・自立にも役立っていますから、不完全な人間関係の中に私が巻き込まれることもなく、また私が人様を巻き込むこともなく、その自分だけの道を独自独歩で平然と穏やかに(普通に)暮らすことが可能になっています。
そしてこの先も必然ご縁のお仕組みに添った生き方を続けるだけです。

だから「食って寝て糞をする」普通の生き方、すなわち宇宙・神=自然・愛に任せた、その「必然ご縁」の「成り行き任せ」に生きることが普通と思える、その「普通」の意味の重さにも気付くことが出来たのです。
しかも今の普通が過去では特別だったことにも気付きましたから、今のままで十分と思えるのも当然のことになります。
そしてその過去の特別なものが無くなっても、それは欲張って得たものだけに、生きる事に支障が無ければそれを容易くあきらめられますから、何の未練も執着にもなりません。

そして此れまで違和感を持っていた伝統風習や道徳やの常識化された形の矛盾に気付くことになりましたし、またその中にある神仏を信じたり祈願する必要性が無いことやお墓や仏壇や戒名の必要性も無いことなどを自らが実践することにもなっているのですから、我ながら我を褒めている格好になります。
すなわち自らが事を成して自惚れる自信や満足では無くて、この世の不完全に気付いてその実践をしているだけですが、それが自信自力となっているのです。