先日の新聞に、フランスの映画監督アラン・レネ氏が3月1日に91歳で死去したと報じられていました。彼はヌーベルバーグの先駆けとなった監督であり、ナチスのユダヤ人虐殺を主題にしたドキュメンタリー「夜と霧」、原爆の記憶が残る広島を舞台にした日仏合作の「ヒロシマ・モナムール(HIROSHIMA MON AMOUR、邦題「二十四時間の情事」(1959年)、「去年マリエンバードで」などの作品で日本でも良く知られています
「ヒロシマ・モナムール」はヌーベルバーグを代表する作品であると評価されており、GGIもこの作品が大好きであります。「ヒロシマ・モナムール」やこの映画でヒロインを務め、「この映画が初の主演作品であったけれど、自分の生涯を代表する作品となった」と述べている女優エマニュエル・リヴァのことについては、これまで何度かこのブログやこのブログの前身であるブログに書いたことがあります
この映画、作品としてもなかなかのものでありますが、GGIと同様の前期高齢者あるいは後期高齢者である日本人が今みますと、とても懐かしい日本の光景が映し出されていて、その意味でもなかなか興味深いものです
と申しますのはこの映画の撮影が広島で行われたのは1958年すなわち昭和33年、公開されたのが1959年すなわち昭和34年、すなわちGGIが地方都市のまったく恥ずかしくなるようなアホ高校生であったころです
この昭和30年代といえば、東日本大震災・原発事故ならぬ敗戦からの復興期の終わりころでありました、まだ豊かとはとても言えないけれど、もう死ぬほどには貧しくはなかった時代でありました、いわゆる高度成長期に入る少し前の素朴な時代といってもよいでありませう
「ヒロシマ・モナムール」に映されている光景はこの時代のヒロシマの街や人々の様子です、主演女優のエマニュエル・リヴァさんは撮影の合間に広島の街の様子や大人や子供たちの様子を写真に撮っていました、その写真のフィルムが数年前に発見され、《HIROSIMA 1958》と題された写真集が日仏で出版されました(リヴァさんやこの写真集のことは2013年3月28日の日記に書きました)。
この写真集には撮影にまつわるいろいろなエピソードも記されており、エピソードに関連した写真も掲載されているのですが、今夜ご覧いただくのはそうした写真の一枚です、よろしければ写真をクリックしてご覧くださいませ
ヒロシマの繁華街を散策するアラン・レネ監督の姿を撮ったものです、この町の様子を見ますと、そうだったよなあ、あの頃、どこでも敗戦からようやく一息ついて、街はどこでもこのような素朴な活気に満ちていたんだあ、と思いだされます、湖都の中心街もこのような感じでありました・・・でも今ではすっかりさびれてしまっています・・・・・
写真には「高級分譲地」を宣伝する横断幕が写っています、そうかあ、この頃にもう住宅ブームが始まりかけていたんだ、そういえば「団地」なるものができはじめたのもこの頃でありました・・衣食がどうやら足りるようになって、ようやく住をなんとかしたいと人々が思い始めた時代でもありました・・・
この時代が終わり高度成長期なるものに突入してしまいます、とにかく経済々々、お金お金で半世紀を突っ走って、経済成長、豊かな生活のためにはエネルギーが電力が何よりも必要とばかりに昭和40年代後半から何と50基以上もの原発を作ってしまたったのです、そのあげくが福島原発事故で第二の敗戦・・・そしてまた「復興」・・・というのはオーバーでありましょうか?・・・
しかしながら、今度の「復興」は何やらお金がらみの気配が濃厚、「復興」さえもが政治に、アベ君の「成長戦略」とやらの景気対策に利用されてしまうのではないかと心配であります
もう経済成長一本槍はやめて、モノにあふれた生活を求めることをやめて、昭和40年代あたりの生活水準で暮らしていくことにすれば、日本はもっと落ち着いた人間的で住みよい社会になるという説をかつて説いた人物がいましたが、この写真を眺めていてGGIはわかるような気がいたします、単なる「むかしは良かった」という懐古趣味ではなく、日本の現在を、未来を憂えて、GGIはそう考えるのであります
えっ、何ですか、わざわざGGIなんかにエラソーに憂えてもらわなくても結構や、そんなことを心配するより自分の身を憂えたらどうや、とおっしゃるのですか、まことにその通りです、貴重な御忠告、まことにありがとうございます
グッドナイト・グッドラック!