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つつじの書・・

霧島つつじが好きです。
のんびりと過ごしています。
日々の暮らしを、少しずつ書いています。

エッセイ 「余裕のヨっちゃんよ」

2018-05-26 15:21:22 | エッセイ

エッセイ 「余裕のヨっちゃん」  2018.5.11 課題 【残したい・忘れたい】

二男が五歳の夏休み、夫の転勤で広島に引っ越し幼稚園を変わった。 

知り合いに紹介された幼稚園は、園児が多いのに園庭は狭かった。
教室の机は全員にはなく、園児の居場所は椅子だけだった。
お絵かきや工作は床に腹這いになってする。
歌の時間はピアノの音に負けないよう大きな声で歌い、先生の声も大きかった。

それまで通っていた幼稚園は保育大学の付属で園庭も広く、遊びを通して個性を大切に、子供が興味を示したものは、じっと見守り耳を傾けてくれた。
ピアノは無く、わらべ歌をきれいな声で優しく歌う、と言うのだったから相当驚いたようだ。
お迎えに行くと、息子は滑り台の高い所にぽつんと立って待っている。
ひと月程経った頃、変な呼吸をしている。
「ヒック」鼻をすすると言うのでもない、所謂チックの様だった。

その頃水泳教室にも通いだしたが、それも嫌だったようだ。
「今日は少しお腹が痛い」とか、「何だか足が痛い」と行きたくない信号をだす。
「お弁当はしっかり食べられたのだから、頑張ってみようよ」と言いながらプールに連れて行く。
帰り道、自転車の後ろへ、「すごいね~、息継ぎが出来たじゃない」と言うと、「余裕のヨっちゃんよ」、さっき迄とは打って変わっていつもの屈託のない声を出す。

身体を動かしたことで自分をとり戻したらしい。

それからは我が家のピースサインは、「余裕のヨっちゃん」、となった。

今、私は隣町の歯医者に通っている。
最新の三D撮影をし、細かい所の情報を見ながら治療を進めますと、丁寧な説明をしてくれた。
だが、目隠しをされ、何かわからない器具を口に入れられての治療は怖い。

自分では割と我慢強い方だと思っているが、体に関することにはとても緊張する。
随分前、手首に小さなガングリオンと言う瘤が出来た。
簡単な切開なのだが、その前のむだ毛を剃るカミソリを見ただけで貧血を起こした。

早く終わって、「余裕のヨっちゃんよ」とピースサインをだして解放されたい。

 先生の講評・・・身体の反応をめぐる息子の心と母の心のストーリー。
           拒否反応を息子はクリアし、母は持つ。
           密な交流記。

 つつじのつぶやき・・・
                      滑り台の高いところに立って、心細そうに私を待っていた光景は 
                      忘れられません。引っ越しはつらいこともありますね。              

             

 

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エッセイ 渋谷の雑居ビル

2018-04-28 12:21:29 | エッセイ

エッセイ  渋谷の雑居ビル 課題 【昭和】  2010.2.12

独身時代、渋谷の古い雑居ビル2階の、小さな商事会社に勤めていた。  

そのビルには、会計事務所や、何かを登記する事務所、昼間でも青白い蛍光灯をつけて図面を書いている事務所などが入っていた。
日本映画監督協会の看板もあり、時々テレビで見た映画監督を見かけた。

会社は、朝、配送や集金の人達が伝票を持って出かけ、一足遅れて営業の人達も出払うと、日中は、事務員4~5人と社長で業務をしていた。

当時社長は四十代の中頃だった。
日焼けした顔で、ぶっきらぼうな話し方をする、特攻隊の生き残りだった。

渋谷という地の利と人柄なのか、社長の友達がよく訪ねてきていた。
部屋の隅の大ぶりの応接セットのソファーに、お互いがふんぞり返って、「馬鹿言うな」とか「よせやい」とか、学生同士の会話みたいに話をしていた。

その中に、背の高いイトウさんという友達がいた。
週に何日か、日中出かけてきて、社員のように机に座って、書類や、郵便物を整理していた。
その人宛に、何とか経済という沢山の郵便物が届いていたが、会社の所在地を住所にしているらしかった。
社長は「イトウは学生の頃、すごく頭が良かった」、「あいつは、今、総会屋だよ」と言っていたが、何をするのかよく分からなかった。

時々、「お嬢さんたちに」とお菓子を持ってきてくれる。
そんな時は、応接セットのテーブルにお茶を運んで、皆でご馳走になった。
西日の当たるテーブルを囲んで、あの頃は、どんな話をしていたのだろうか。

私が入社して五年程たった頃、戦後の高度成長と言われる波に乗って、渋谷駅をはさんだ反対方向に、小さな自社ビルを建てて、引っ越しした。

古い友人の話だと、あの雑居ビルは、タイルがはがれるのを防止するネットをかぶって、まだ建っているという。

 つつじのつぶやき・・4月、新しい会社にお勤めをした人も多いでしょう。
              早く慣れて、楽しい場所になってくれるといいですね。
             

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エッセイ 生きていくって!

2018-04-09 15:56:06 | エッセイ

エッセイ  生きていくって! 課題  【生・性】  2009.10.23

その年、三月に入って、どうしてもパソコンの前から離れられない事があった。
前年の秋からある講座を受け、六月に資格検定をとる事になっていた。
軽い気持ちで受講したが、始まってすぐに後悔した、難しい。
私より十歳ぐらい若いメンバーは、すいすいと小テストや問題をこなしていく。
私は確かに教わったことを、次回になると忘れている。
質問をされると頭の中が真っ白になる、記憶が脳に張り付かない。

六月の検定には、その前の検定を取っておかないと、受験資格がないという。
その検定は、四月になると新しい課題で難しくなるとの噂だったので、どうしても三月中に済ませたかった。

朝から模擬試験のCDを使って、問題集やタイプの練習をした。
最初の10分間にタイプの試験がある、40点を取らないと、次の検定に進めない。

「キョウトギテイショニモリコマレル――」
「チキュウオンダンカノニサンカサンソノノウドハ――」等々、

カタカナの文字が次々に出てくる、読み取って早く打たなければならない、毎日練習をした。

ある日、身体の異変に気がついた。
立ち上がる時、すぐに動けない、お尻の辺りが痛い、立っているのが辛いなと感じているうちに痺れてきた。
椅子に座ってばかりだから運動不足だろうと高をくくって、時々ストレッチをしながら続けていた。

段々痛みが増してきた。
病院で診て貰うと、加齢のせいで骨が磨り減ったという。
余りの痛さに、痛み止めを毎日飲み続け、日中も横になる事が多くなった。

「桜が咲いたよ、見に行こうよ」
「お花見より寝ていた方がいい」
花見をしない春だった。

人間は怪我をしなくても、歩けなくなる事があるんだと気がついた。
脳の退化と身体の退化、六十歳を過ぎたら、本当に老いがきたのだ。

 つつじのつぶやき・・・・・
               今年の桜はもう散ってしまいましたね。
               目黒川の5分咲き、近くの団地の7分咲き
               満開の金仙寺の枝垂れ桜を見られて幸せでした。
               9年前は若かったのに、お花見に行けませんでした。

 
2018.3.27 所沢金仙寺の枝垂れ桜

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エッセイ 従姉妹のたあちゃん

2018-04-01 09:06:11 | エッセイ

エッセイ 従姉妹のたあちゃん  課題 【明治・大正】  2009.11.27

亡くなった母は、大正三年寅年生まれ、よく「私はごおうの寅よ」といっていた。強い寅だと言いたかったのだろうか。

九人兄妹の末っ子、姉達とは大分年が離れていたから、年の近い姪たちと親しくしていた。
特に近くに住む姪のたあちゃんとは、一見、姉妹のようだった。

「叔母さん居る?」と声がすると、「たあーか?」母はうれしそうに迎え、何だか、いつも頭をくっつけて、笑って話をしていた。

たあちゃんは、母より一回り下の寅年で、忠子と言う。
忠義の忠と言う字に寅年で、何となく勇ましく感じるが、はきはきした気持ちのいい人だ。

五人姉妹の、「長女でしっかりもの」、「目から鼻に抜ける」「子供の時はずーと級長だった」と、母は、妹のように自慢していた。
同じ長女だよと、従姉妹同士の私に、聞かせていたような気がする。

 母の法事で、仏様と参列者に振舞う団子を作る事があった。
義妹が、前の日から米の粉を用意していた。

「お姉さん作り方を知っている?」と言うので「簡単よ、米の粉にお湯を使うの、水は駄目、それを丸めて蒸かすのよ」知ったかぶりをして、長女の貫禄をみせた。

次の日、朝から張り切って、こね台の米の粉にお湯を入れ、団子に丸めようとしたが、ざらざらと手にくっついて円くならない。
義妹と、「何か変だね」と言いながら、いびつな団子を蒸かした。
硬くてざらざらした、おかしな団子が出来上がった。
弟も台所を覘いて、「何だ?、これ」と薄笑いを受かべる。

こんな時はたあちゃんに聞くしかない、電話で事情を話すと、直ぐに来るという。

バイクの音がして、「あら○○ちゃん久しぶり」と、大きな笑顔で台所に入ってくる。
「ちゃんとこねた?、力を入れて、何回もこねるのよ」
こねる、こねるって事を知らなかった。

もう一度、柔らかな、丸い団子を作った。
従姉妹のたあちゃんは、何でも知っている。

  つつじのつぶやき・・・・・古い作品です。
                  今朝、散歩の時に、
黄色い山吹を見て
                  
懐かしかった「むかし」を思い出しました。

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エッセイ 巳斐の人たち(太田川)

2018-03-16 12:59:39 | エッセイ

エッセイ 巳斐の人たち (太田川) 【森・湖・橋・ホテル】 2018.2.9

広島市の西に太田川がある。
大きな川で市内に入る前に何本かの支流があり、原爆ドームの側の元安川もその一つだ。

私は一時期、市内から太田川を渡って宮島に行く途中の巳斐と言う所に住んでいた。

市内には「広電」と言う路面電車が沢山走っていた。
三十年も前のことだが、乗車券が百円、行き先が分かりやすく、バスに乗るより利用しやすかった。
広島市は中国地方でも大きな都市だ。
市民球場やプール、美術館、病院と施設がまとまってある。そこに行きながら、買い物や食事など、よく広電に乗った。

巳斐から乗ると、走り出してすぐに左にカーブし、太田川にかかる巳斐橋を渡る。
下の河川敷は広く、学校が休みの日、時々ソフトボールの練習があった。
当番になった親は、川の近くに待機し、外野がエラーしたボールを拾う。
ボールが流れてしまうと虫取りの網を使って、ゆっくり流れている川から掬い上げた。

 二男は入ったばかりの一年生。チームで使いまわしをするぶかぶかのユニホームを着て走っている。
慣れない練習をしているのが心配で時々目で追っていると、Bチームは橋の下の日陰で休憩をしている。

今では考えられないことだが、当時練習の時は、水分を取るとバテるから、休憩以外は飲まないという事になっていた。
当番が持ってきたクーラーボックスからカップに取り分けて同じ分量を貰う。
日に焼けた顔が並ぶ。
太った子が汗だくの顔で「もうちょっとお願い」とねだる。
「一寸だけね」と、もう一杯注いで貰うのを見た他の子供達も、「ずるい、ずるいよ」とコップを出す。

時々バイクに乗った町内の人がアイスを持って差し入れをしてくれる。
そんな時の子供達の歓声は特別だ。

川べりで貝を拾っている人がいる。
魚釣りの人や、お弁当を広げている家族連れもいる。
夏には原爆で亡くなった人の灯篭流しもある。太田川は生活の川だ。

   先生の講評・・・・・川をめぐる物語の上、中、下流は人生にたとえられる。
              表現も多いか、つつじ版は中流の母の記。
              情景がまざまざと浮かぶ。

 

 

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エッセイ お兄ちゃんだよ

2018-03-08 10:38:44 | エッセイ

エッセイ 「お兄ちゃんだよ」 課題 【心・体】 2009.12.11

何年か前、「佐賀県唐津市の小5男児ひき逃げ・連れ去り事件」と「秋田県藤里町の小1男児殺害事件」という、悲惨な事件が連続してあった。

あの時のお兄ちゃん達は、今、どんな気持ちで弟の事を思っているのだろうかと、時々思い出す事がある。
 唐津市の事件は、小学5年生の男の子が、夕方、叔父さんの家から自転車で帰る途中にひき逃げされ、その後、連れ去られ行方不明になった事件だ。  

壊れた自転車と、血の痕が残っていた為、消防団や地元の人たちが探していたが見つからない。
一旦引揚げ、明朝の捜索ということになった。

朝まで待てない家族は、再び探しに行き、夜中の一時過ぎ、高校生のお兄ちゃんが、真っ暗闇の林道で、頭に重症を負っていた、瀕死の弟を発見したと言う。

生まれた時から、ずーと見守ってきた弟が、突然居なくなる。
そして事件に巻き込まれたらしい、お兄ちゃんは、真っ暗な山に向かって、何度も何度も弟の名を呼び、祈ったと思う。

もう一つの事件は「秋田県藤里町の小1男児殺害事件」
小学校からの帰り道、近所のおばさんに家に呼び込まれて殺害され、近くを流れる川の土手に放置された、小学一年生の豪憲君の事件だ。

テレビのニュースには、元気な豪憲君の映像が繰り返し流されたが、それはつい最近まで保育園児だった幼い姿だ。
いつも遊んでいた友達のお母さんに殺されるなんて、考えもしないで家に入って事件にあう、その時、どんなにか怖かっただろうと思う。

事件後の告別式の時、小学4年生の豪憲君のお兄ちゃんが、最初に呼びかけた言葉が、「お兄ちゃんだよ」だったとか、何ともせつない言葉だ。

お兄ちゃん達が、突然に出遭ってしまったあの時の悲しみ、心に吹き荒れた嵐は、少しでも治まってきただろうか。

  つつじのつぶやき・・・・・・8年前の作品です。
                  春の雨がしとしと・・・寒い日です。
                  気持ちがおセンチになります。

 

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巳斐の人たち(夜の街)

2018-02-24 10:39:57 | エッセイ

エッセイ 巳斐の人たち(夜の街)  課題【待つ・帰る】  2018.1.26

長男が入っていた町内のソフトボールチームのお母さんたちとよくおしゃべりをした。
その中でも監督の奥さん、宣ちゃんのお母さんとMさんには親しくしてもらった。
奥さんはパートで働きながらママさんバレーもして溌剌としていた。
馴れ初めを聞くと成人式の後に、監督を紹介をしてもらったとか。
それから一年後に結婚をして宣ちゃんが生まれた。
出会った時は三十代前半だった。
もう一人の友人Mさんは、奥さんが親しくしている人だった。その頃はみんな若かった。

夫も応援や打ち上げに参加して、町内の人たちと知り合い「今度は夜の街に行きましょうや」と何度か誘われた。
秋になりソフトボールの練習も少なくなった。
監督の兄貴分みたいな、少し強面のYさんから私も再三誘われ、私に行こうと言う。
子供達はどうするのかと言うと、「留守番させても大丈夫だよ」と強く言う。
子供が生まれてからは、夜の街に遊びに行くなどとは考えたことがなかった。

監督の奥さんに話すと行って見たいと言う。
Mさん夫婦も一緒に、広島の繁華街ナガレの少し妖しいバーに行った。
キラキラしたライトの向こうに、小雪さんと言ったような名前の、和服を艶めかしく着た女装の男性と、大きなイヤリングをつけたマスターがいた。
ひとしきりお酒がまわると、小雪さんはカウンターの中から、男性陣にきわどい突っ込みを入れて笑い、マスターは女性陣に話しかけながら姿を消した。
そして、突然黒いカーテンの向こうから、裸のマスターがお盆を持って現れ、ヌードショーが始まった。
あまりの事で驚いたが、踊りながら何かを言い盛り上げる。
只々笑った。

その時、小学校六年と一年生の息子に、どんな風に留守番をさせていたのだろうか。
夜の街に遊びに行く後ろめたさで、普段は時間をやかましく言っていたファミコンゲームをしていいよ、おやつも用意しておくからなどと言ったかもしれない。

二人は私達をどんな気持ちで待っていたのだろう。

  先生の講評・・・子育てとゲイバーの対比が面白い。
            工夫、計算がある。

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エッセイ 巳斐の人たち(打ち上げ)

2018-02-06 16:04:21 | エッセイ

エッセイ 巳斐の人たち(打ち上げ)  課題 【冬・自由課題】  2018.1.12

町内にあるソフトボールチームの監督は、長男と同級生の宣ちゃんのお父さんだった。
三十代半ばの身体が大きく、いつもサングラスをかけ野太い声を出すので、やんちゃな子供達も言うことを聞く。

夕方、練習は六年生のキャプテンが声を出して始めるが、皆はふざけて言うことを聞かない。
そこに仕事を終えた監督の姿が見えると、途端にシャキッと持ち場に入り今までとは違った姿勢で練習が始まる。
それを下級生がじっと見ている。

試合に勝つと打ち上げがある。
監督が自宅を開放してくれることが多かった。
町内会や応援の人から差し入れがあり、母親たちも自分の家から漬物や煮物などを持ってくる。
大きなお勝手で料理をするが、特別立派なものではなく、ウインナーを炒め、空揚げとサラダを沢山つくり、派手な色のかまぼこを大皿に盛りつける。
こういう時の為に折り畳みの机を用意したと奥さんは言った。

ある時、流しで洗い物をしていたら、足元で何かを混ぜていたお母さんが、私を見上げて「ヘシタ?」と聞いた。
えっと思った。
おならをしたか?と聞いたのだと思った。
首を振ったが「ヘシタ?」とまた言う。
それを見ていた人が方言よと笑った。

方言はおもしろい、パン屋さんでいつも買う物を探していると「今日はミテルんよ」と言った。
満ちているのではなく、もう無いの意味だとか。

奥さんが子供達に「ハイ座りんさい」とテーブルに着かせ食事会が始まる。
たらふく食べた子供達は食後のおやつを貰い、応援に来た大人達と交代する。
その時、誰の子にと言う事もなく町内のおっちゃん、おばちゃんが声をかける。

「〇〇、よう投げおったな」
「駄目かも知れんと思ったんよ」
「あれで点を取られなかった」
「よく飛びついたな」
けん制が巧く行ったと、試合の話に盛り上がる。

子供達は試合もだが、大人に交じって話が出来るその興奮から、皆大きな声を張り上げる。

 先生の講評・・・下線の部分、笑いでむせた。
           でもどんな意味の方言なのか、説明がほしい。
           巧まざるユーモアのセンス、光る。

 つつじのつぶやき・・・「ヘシタ」は減らしたか?の意味です。
               教室の発表の時も、又先生は笑いまいました。

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エッセイ 内視鏡検査

2018-01-14 11:32:00 | エッセイ

 エッセイ 内視鏡検査   課題 【今年・過去】  2017年年12月22日

今年も、大腸の内視鏡検査をした。
前回の診察の時、秋になったら検査をしましょうと言われたが、十月は前からの約束があるし、十一月は孫の七五三があると、少しでも後に伸ばす口実をつけていた。
でも一年お世話になったお腹のこと、嫌々ながらも前日から食事制限をし、当日は、朝早くから検査薬を大量に飲み下剤をかけ、都心の病院に行って検査をした。

立川から乗った中央線は混んでいた。
途中から席に座れたが、ふわふわする身体が心もとなくずーと目をつぶっていた
病院に着くと受付の女性がにこやかに案内をしてくれ手術室に入る。
照明が柔らかな色に変わり、静かな音楽が緊張を和らげる。
ベットに横になると、血圧計や心電図をつけられ「チクッとしますよ」の声の後「・・・、眠くなるお薬を入れます」と看護師さん。

先生の「○○さん、よろしくね」の声を聞いた後は、もう何も分からず検査に入っていく。

主治医の先生とは、十年以上前、市の検診で精密検査を勧められガンセンターで内視鏡検査を受けた時からのお付き合いだ。
その後、実家の医院の二階を改築して開業したが、二年前に赤坂の氷川神社の前のビルに引っ越した。
新しい病院はいつも生花が飾られ、白い色を基調にしたエステサロンのような気持ちのいい空間、受付の女性も看護師さも綺麗な女性ばかり、黒い診察着を着た先生は、時々ロビーに出て皆に声をかけてくれる。

検査が終わり、今回はポリープを採ったので一週間は安静にし、食事も脂肪の少ない消化の良い物をとるようにと、麻酔で深く眠った後のぼんやりした頭で先生の話を聞いた。

この検査をすると、体調が一、二週間はおかしくなる。
以前見たテレビで、草原を走りまわっていた、馬だったか鹿が、首に縄をかけられて倒され、荒い息を吐きながら観念したような力のない目をしていた。
今の私がその時の馬のように、何でもない日常から突然引き倒されたような、そんな気分で過ごしている。

先生の講評・・・太字のイメージがよい。
          散文の経緯の中にこのような部分を入れると、文に立体感が出る。
          イメージこそ、創作に一番必要なものかもしれない。 

  つつじのつぶやき・・・久しぶりに褒められた作品です。

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エッセイ 巳斐の人たち(ソフトボール)

2017-12-28 11:31:27 | エッセイ

エッセイ 巳斐(こい)の人たち(ソフトボール)  2017.11.24 課題行く・戻る・逃げる

十一月になると、喪中の葉書が届く。
大抵は知り合いの親族だが、今日届いた葉書きは本人が亡くなったとの知らせだった。
年賀状の交換だけだったその人は、九月に亡くなったとか、まだ二カ月しか経っていない。
広島のあの坂の上の家に、ずーと居てくれる人だと思っていたのに逝ってしまった。

夫が広島に転勤になり、小学生の息子たちと広島市内に引っ越した。
そこは、家並はごちゃごちゃしていたが、関東の土とは違う白い砂地の明るい町だった。

バブル時代と言われたその頃、人事の入れ替えがひんぱんで、働き盛りの社員、特に小学生ぐらいの子供を持つ年代の転勤が多かった。

九月の始業式の日、転校生が待機する教室に行くと、三十人近くの生徒とその父兄がいた。
九月でこの数だから、四月にはもっと大勢いたのかもしれない。
それ迄通っていた小学校は、二クラスのこじんまりした学校で、転校の手続きの後、校長先生と担任の先生が玄関迄見送りに来てくださった。
初めての転校に随分緊張したが、子供達は、すぐに土地の言葉を使い始めた。

住んだのは市内の西、太田川の大きな橋を渡って、山の中腹まで沢山の家が建っている、己斐(こい)という処だった。

転校した小学校はソフトボールが盛んで、チームに入っている子が多く、長男も入れてもらった。
「市子連」と言った各町内ごとのチームが競い、決勝大会はh広島市民球場で行われる。
そこにいく迄の練習と試合に、町内の大人達も熱心に応援をする。

練習場はバイパスの下、雨が降っても練習が出来る。
関東より一時間ほど日の暮れるのが遅い。
夕方になると金網の外に、大人たちが集まり、大きな声援や野次を飛ばす。

「しっかり捕れや」「腰が引けとるぞ」
「おっちゃん、うるさい」と子供も負けていない。
見ている母親たちも、「晩はハンバーグじゃけ~ね」などと声をかける。

その時の監督が、その人のご主人だった。

  先生の講評・・・結になる伏線が生き生きとしているだけに、悲しみがある。

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