先生の講評・・・・・
「イトウ」さんの描写に強烈な存在感が、時代の影がある。
突き放した結末も良し。
つつじのつぶやき・・・・・
前回書いた「社長」シリーズの舞台です。
渋谷の栄通りを少し歩き、先日まであった東急デパート本店の前にありました。
私が勤めていた時は、大向小学校でした。
先日、開店当時の様子がニュースに流れ懐かしくなりました。
渋谷の雑居ビル 課題 【昭和】 2010・2・12
独身時代に勤めていた商事会社は、渋谷の古い雑居ビルの二階、突き当たりにあった。
そのビルには、会計事務所や、何かを登記する事務所、昼間でも青白い蛍光灯を
つけて図面を書いている事務所などが入っていた。
日本映画監督協会の看板もあり、テレビで見た映画監督を、時々廊下で見かけた。
会社は、朝、配送や集金の人達が伝票を持って出かける。
一足遅れて営業の人達も出払うと、日中は、事務員4~5人と社長で業務をしていた。
当時社長は四十代の中頃だった。
日焼けした顔で、ぶっきらぼうな話し方をする、特攻隊の生き残りだった。
渋谷という地の利と人柄なのか、社長の友達がよく訪ねてきていた。
部屋の隅の大ぶりの応接セットのソファーに、お互いがふんぞり返って、
「馬鹿言うな」とか「よせやい」とか、学生同士の会話みたいに話をしていた。
その中に、背の高いイトウさんという友達がいた。
週に何日か、日中出かけてきて、社員のように机に座って、書類や、郵便物を整理していた。
その人宛に、何とか経済という沢山の郵便物が届いていた。
会社の所在地を住所にしているらしかった。
社長は「イトウは学生の頃、すごく頭が良かった」、「あいつは、今、総会屋だよ」と言っていたが、
何をするのかよく分からなかった。
時々、「お嬢さんたちに」とお菓子を持ってきてくれる。
そんな時は、応接セットのテーブルにお茶を運んで、皆でご馳走になった。
西日の当たるテーブルを囲んで、あの頃は、どんな話をしていたのだろうか。
私が入社して五年程たった頃、戦後の高度成長と言われる波に乗って、渋谷駅をはさんだ反対方向に、
小さな自社ビルを建てて、引っ越しした。
友人の話だと、あの雑居ビルは、タイルが剥がれるのを防止するネットを被って、まだ建っているという。