エッセイ:草いきれ
夕食の食器の音に目を覚ますと、腕が痛い、猛烈に痛い。咄嗟に何が起
きたのか分からず起き上がる。
真っ暗な部屋の電球にスイッチを入れ、母がけげんそうな顔をして覗き
込む。
「どうしたの?」
「腕が痛くて上がらない」
「又、何をしたの?」
「ぐみを採りに行って、坂で転んだ」
「また~」
私が十才位だった頃だと思う。
長雨が止んで、急に晴れた日、友達と、近くの山にぐみの実を採りに行
った。
山道は激しい水が流れた痕や、たっぷりと水気を吸った青葉や伸びた草
が重なり、いつも見慣れた景色とは違っていた。誰も来ていなかったぐ
みの木には、真っ赤な実が沢山生っていて、思う存分頬張り、残りは篭
に入れた。
私は近道をする為に友達と別れた。篭には沢山のぐみが入っていて気分
がよく、急な坂道を猛スピードで駆け下りた。そこで滑った。
急な坂道に頭が下、足が上の、半分逆立ち状態になり、起き上がろうと
しても腕が痛くて立てない。
誰も居ない山道の草いきれの中で大泣きしていたが、それでも何とかし
て家にたどり着き、昼寝用の布団で寝てしまったようだ。
こんな時の応急処置は、いつも近くの柔道家に見てもらう事になっている。
田植えがすんだ田んぼの畦道から河原に出ると、長雨のせいで小さな丸
木橋が流されていた。
母は迷わず私に背を向けた。私は一寸迷ったが母のふっくらした肩につか
まると、母はざぶざぶと川を渡った。柔道家の家に着き、遅い時間を詫び
て治療を頼んだ。幸い骨折はしていなかった。
帰り道、母と並んで歩いていると、その日大きな声で泣いた事と、母に
おんぶしてもらった事が恥ずかしく、訳もなくおしゃべりをした思い出
がある。