エッセイ お御籤
一寸した用事の帰り、又浅草に行った。
伝通院の桜が満開をむかえて、参道に花びらを落としている。
真っ赤な提灯に「雷門」と書かれた門をくぐると相変わらず観光客が多く、仲見世通りは
人があふれている。土産物屋には余り入っていないが、人形焼の店や、ぬれせんべい
などの食べ物屋には人だかりがしている。土産を買うというより、歩きながら何か口に入
れたいという事のようだ。
土産物屋を横目で追いながら歩いていくと、仁王門が待っている。くぐった裏には、大き
な草鞋が吊るされている。こんな大きな草鞋を履く仁王様が守っているのだとの象徴だ
そうだ。そこに立つと、最近もう一つの目玉が増えた。東京スカイツリーが間近に見え、
それに気づいた人は歓声を上げている。
広い境内に入ると、ひと時、流れが止まる。
お水舎で手を清め、本堂の階段に向かう人。大香炉の周りで、線香の煙を体の一部に
浴びながら、ご利益をお願いする人。見ていると初めは真剣に、そして半分冗談のよう
な仕草をして離れるのが面白い。浅草寺や五重の塔を背景に、記念写真を撮る人も多
い。
いろんな年代の人や、外国からの人がそれぞれの言葉を交わす。中でもお御籤の所
はいつも人が沢山いる。
私は、最近お御籤をひかなくなった。過去のことや、これからの運勢を占っても仕方が
ないと思うようになって久しい。
友人のお姑さんは、大きな病院の婦長を長いこと務めて、肝が据わった人だったそうだ。
家族で旅行をした時、神社仏閣の見学やお詣りは端折り、お御籤も興味を示さない。
「古いものを見たってしょうがない、罰が当たるなんて迷信,迷信よ」
そのくせ、お土産物屋に入ると、目はぱっちり、生き生きとして、欲しい物は何でも買っ
てくれたそうだ。
その話をきいて、私も小さな肝が据わってきたのかな、と、時々思う、けど。