遠縁の方から渋柿をいただきました。
もう一家全員が都会に出てしまい、荒れ果てた田畑だけが取り残されているのですが、一本だけ愛宕柿の木があってたわわに実をつけるのです。 そして、それだけは年末に帰ってきて収穫しています。
きれいに採ってしまった柿の木。
ひとつだけぽつんと柿が残されています。 採り忘れたわけではなくて、わざと収穫してしまわないで一つ二つ残しておくのです。
木守りの柿です。
今年の実りに感謝し、来年の豊作を祈る意味で残された実を、「木守り」というのだそうです。
昔、この言葉を知って改めて周辺の柿畑を見たら、どこの畑も木守りの柿が残されていました。
この柿畑にも残っています。
残された柿は長く木にとどまり、やがて鳥たちのえさになっていきます。
柿農家の人たちがこの習慣を律儀に守っていることを知ったとき、わたしは感動を覚えました。
作物のできが決して人間の思い通りにならず、まさに自然の恩恵によるものであった頃は、人間は自然に対して今よりずっと謙虚であったのだろうと思います。
しかし、今はどうでしょうか。
知り合いから聞いた話ですが、その人が田舎でシジミがたくさんある所を見つけて、町に住む他の人に教えてあげたんだそうです。 教えられた人はさっそくそこへ行ってシジミを捕ったのはいいのですが、小さいシジミも根こそぎ全部捕ってしまったため、翌年からそこにはシジミがいなくなったそうです。 あれからもう、つくしでも何でもありかを教えないようにしていると、その人は話してくれました。
欲望のままに取り尽くさないで来年の実りのために残しておく、それは食べ物がいつでも豊富に手にはいるとは限らない時代の知恵でもあったのでしょう。 ですから、果実に限らず山菜でもなんでもすべてを取り尽くさないで少しだけ残しておくことは、田舎の人にとっては常識です。
若くして町に出たこの柿の木の持ち主が、木守りの柿を残しているのはすばらしいと思いました。