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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その176 『金沢城』 その5

2017年01月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
限られた時間でしたので、十分に見て回ることができずに帰路につきました。



すでに数回訪問しましたが、もう一度ゆっくり見て回りたい金沢城です。



ネット記載の金沢城の歴史です。
1546年(天文15年)に創建された金沢城の前身、金沢御堂は、地元の大坊主衆や本願寺の坊官たちが取り仕切っていました。
この金沢御堂を制圧し入城したのが佐久間盛政です。
佐久間盛政は、1580〜83年の在城でしたが、尾山八町(初期の城下町)の整備や百間堀の開削など、後の基礎を築いたと考えられています。



佐久間の後、前田利家が能登から金沢城に入りました。
利家自身は、豊臣秀吉の重臣として京・大坂にいることが多く、
慶長4(1599)年に没するまで留守にしていることがほとんどでした。
その後、宝暦や文化の火災を経て明治維新まで、利家から数えて14代の藩主が金沢城の城主となりました。



前田利家が入城し、本格的な近世城郭へと姿を整えていきます。
1592年(文禄元年)の石垣普請、1621年(元和7年)の本丸の拡張などを経て、1631年の寛永の大火後現在の金沢城に近い姿になりました。



現在天守閣はありませんが、1602年(慶長7年)の落雷によって焼失するまで本丸にそびえていました。
櫓の数は多い時は20棟を数えたといわれ、鉛瓦や海鼠(なまこ)塀が貼られた石川門や三十間長屋など、金沢城独自の偉容を誇ったと伝えられています。



1871年(明治4年)廃藩置県で明治政府のの所轄となって旧陸軍の拠点となり、1949年(昭和24年)からは金沢大学のキャンパスになりました。
その後、大学の移転により1996年(平成8年)に石川県が取得し、金沢城公園として整備を実施しています。



『三の丸』方面から『石河門』を見ています。



今回は寄ることができませんでしたが、最後に以前撮った写真で金沢の小京都『ひがし茶屋街』を紹介します。
『ひがし茶屋街』は金沢に残っている3つの茶屋街の中でも最も規模が大きな茶屋街です。
石畳の道の両側に紅殻格子のお茶屋が並んでいて、江戸時代の雰囲気を残しており重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。



金沢駅から徒歩ー分ほどの東山というエリアは、茶屋町創設時から明治初期の建築が残る重要伝統的建造物群保存地区になっています。
『ひがし茶屋街』は料亭街となった現在でも、全体が保存区域になっているのでお茶屋建の家並みが続き、夜ともなれば三味線や太鼓の音が聞こえ、雅な伝統文化の世界を垣間見ることができます。



今でもキムスコ(木虫籠)と呼ばれる美しい出格子がある古い街並みが残り、灯ともし頃には、今でも軒灯がともる茶屋から三味線や太鼓の音がこぼれてきます。
五木寛之著『朱鷺の墓』の舞台としても知られています。



それでは金沢よりお別れです。