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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その114の3 『白川郷』

2011年05月28日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
春を迎えた白川郷の写真を紹介しながら、ネット情報による白川郷の歴史を少し紹介します。
白川郷の深い谷間にいつ頃から人が住むようになったのか、詳しいことは分からないようです。
源平合戦の初期、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたとされていますが、これも伝説の範疇を出ないようです。



白川郷がようやく歴史に登場するのは鎌倉初期の建長5年(1253年)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教してからです。
その頃、白川郷をはじめ飛騨の多くは、美濃・白山神社長滝寺の社領地で、白山信仰を中心とする天台系密教の強い影響下にありました。
白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊は熱心に教えを説き、農民たちの間に浄土真宗が広まります。



相次ぐ戦乱の後、寛政元年(1460年)内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。
内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。
当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るい、白川郷にも一揆の勢力が流れ込んできました。



浄土真宗のもとで団結した農民たちと領主の内ヶ島氏は激しく対立し、文明7年(1475年)数度にわたって武力衝突します。
内ヶ島為氏は正蓮寺に籠った僧・明教を焼き討ちし、対立は頂点に達しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。



時代は戦国時代になり、天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が討たれた頃、白川郷を除いて飛騨をほぼ統一した三木自綱は内ヶ島氏理と共に越中領主・佐々成政と反豊臣秀吉連合を組みました。
豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、天正13年(1585)金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて白川郷を攻撃しました。金森氏は事前に照蓮寺勢力と手を結んだため、越中に出陣中の内ヶ島氏はたまらず降伏します。



金森長近は白川郷の鉱山資源に目をつけたのか、領地を安堵したうえ内ヶ島理氏を居城の帰雲城に帰してやりますが、直後の天正大地震で内ヶ島氏は居城、城下町もろとも山崩れの中に埋まってしまいました。
金森長近は真宗門徒の功績を称えて照蓮寺を高山に移転させ、広大な寺域を与えました。



江戸時代の中頃になると、現金収入として養蚕業が盛んになります。北陸系の寄棟茅葺屋根が主流だった白川郷では、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。
特に農地が乏しい下白川郷では、農地と労働力の確保のために3層、4層の切妻合掌造りが発達し、分家を認めず、長男以外に正式な結婚を許さない大家族制度が生まれました。



養蚕が主要産業だった白川郷では、成人した子どもたちが貴重な労働力になります。
特に養蚕作業に欠かせない女手は、家業に精を出すため嫁がずに子どもを生むのが習慣でした。
合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性がありますが、その葺き替えには数百人もの人手が必要です。村中が協力して役割を分担し、共同で屋根葺き作業を行う「結」はこうして生まれました。
また、白川郷や越中五箇山ならではの産業が、火薬の原料である煙硝の生産でした。家の床下に刈ったヒエやヨモギを敷き、蚕糞を混ぜた土に人尿を撒いて、数年かけて煙硝土を作ります。煙硝土を灰汁で煮詰めると純度の高い煙硝ができました。秘境の地だった白川郷は、軍事秘密である煙硝生産に最適の土地でもありました。



明治8年(1868年)下白川郷が白川村、上白川郷が荘川村に再編されます。
社会制度と経済の変革によって、白川郷の生活は大きく揺らぎます。煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れると、現金収入を求めて男は鉱山労働者、女は信州の製糸工場の女工に、出稼ぎをするようになります。
第二次世界大戦後には、化学繊維の普及や農業用水整備による桑畑の水田化により養蚕業が廃れて大型合掌造り民家の必要がなくなりました。
昭和36年(1961年)戦後の経済成長を支える御母衣ダムの建設は、300戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進みます。

合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3千万円以上の金額がかかります。
村人総出で行う「結」の共同作業も大変なものです。
その後、全国的に伝統家屋保存の機運が高まると、白川郷の危機を感じた荻町集落では昭和46年(1971年)『売らない、貸さない、壊さない』の三原則を定め、茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにんり、観光立村へと歩き出します。
平成7年(1995年)白川郷荻町合掌集落世界文化遺産へ登録されると、人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるようになりました。



以上がネット情報の抜粋です。

続く....................................................................................................。