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笹島正司くんとは、なんどかニペソツに登った

2014-12-24 | 日記・エッセイ・コラム

 

 シロクマさんから、笹島正司くんに関するコメントをいただいた。ありがとうございます。

 笹島くんと同期ということは、わたしが3年のとき、1年。つまり、わが帯広三条高校のあの木造校舎で、板張りの廊下ですれ違って過ごした、同窓生ということですね。

 

 笹島正司くんは、帯広三条高校山岳部の後輩で、高校生のとき、なんども一緒にニペソツに登った。

 わたしが帯広にもどって、駅前でレコード屋になってすこしして、笹島くんも帯広に帰ってきて(実家は芽室だった)、パイオニア帯広営業所に勤めた。開店したばかりで繁盛していた長崎屋の家電売り場を担当していた。

 笹島くんは、長崎屋の仕事帰り、毎日のようにわたしのレコード店に寄ってくれた。

 そうして、わたしの店のスタッフ、恵子さんと結婚することになり、わたしが仲人を仰せつかった。

    

 「仲人? とんでもない。俺のような、25かそこらのガキがやることじゃないです。日本を代表する、大きな会社にいるんだから、上司の所長とか、北海道を総括している本社の営業部長とか、そういう人が仲人にふさわしいのじゃないですか」と、お断りした。

 すると、笹島くんのお父さんから、筆字の長い手紙をいただいた。

 笹島くんのお父さんは、教育者だ。そのとき、芽室高校の校長から、滝川高校の校長になっていた。

 お父さんの、みごとな字の手紙の主旨は、「二人の出会いをつくって、二人が結婚を決意するまで、いろいろ助言していただいた、と聞きます、その人こそが、仲人ではないでしょうか。ぜひ、仲人を引き受けてください」と。

 そのとき、わたしの奥さんだった人に、この手紙をみせて、「(俺ら若くてふさわしくないが)、笹島君の仲人、やろうか?」というと、やりましょう、と同意してくれた。

 

 

 そんなわけで、笹島正司くんご夫妻の結婚式の仲人をやらせてもらった。

 そしてすぐに、笹島くんは、帯広から函館に転勤になった。

 

 浜田省吾、ジョニー大倉、矢沢永吉、中村雅俊。初期の函館のコンサートは、すべて、わたしがプロモートしていたが、それは函館に笹島正司くんのご夫妻がいたからだ。

 道南・函館の音楽市場の状況は、パイオニアの有能な営業マン、笹島くんに尋ねると、具体的で正確な分析をしてくれる。レコード店・楽器店・プレイガイト、新聞社・ラジオ・テレビ局、アマチュアバンドの動静など、訊ねると詳細な情報をくれる。

 矢沢永吉・函館コンサート、中村雅俊・函館コンサート。(帯広の、わたしが函館にいってプロモートしていた。帯広の人たちは、なにも、知らないだろが………)。

 

 笹島正司くんが、くも膜下出血で、突然、若く亡くなったのは、いまも、悲しく、つらい。

 笹島正司くんは、わが帯広三条高校山岳部の後輩だ。高校生のとき、いっしょに、残雪のニペに登った。