tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

岸田首相と梶田会長の会談を言祝ぐ

2022年01月15日 11時28分22秒 | 政治
1月13日、岸田首相と日本学術会議の梶田会長との会談が実現して、これからは松野官房長官を窓口に対話を進めていくことになったのと事、心から言祝ぎたいと思います。
「言祝ぐ(寿ぐ)」などと何と「大層な」と思われる向きもあるかと思いますが、これはまさに、国民として、大変な喜びなのではないでしょうか。

考えてみれば、国として「政治と学術が対話を持たない」という事が何を意味するかです。

政治家になる人たちも、学術の世界から生まれてきた教育というプロセスの中で成長し、国や広く社会のために何をすべきかを身に着けることが出来たのでしょう。
学術は常に政治家の師として存在して来ていたのです。

そうして育った政治家が、学術の恩恵を忘れて、学術を軽視したり、学術を疎外したり、学術を否定したりすることは、何を意味するか考えてみれば、問題の本質が見えてくるように思います。

政治はその国の命運を直接握っている存在ですからその権限は巨大で責任は重大です。
一方、学術は、宇宙の森羅万象の在り方をその生成の結果生まれた人類の在り方も含めて研究し、人間という存在が、宇宙、自然の原理にどう対応するべきか、更に人間同士の在り方が、宇宙、自然の中でいかにあるべきかを探求し続ける存在でしょう。

こうした関係の中では、人間は、もちろん政治家も含めて常に学術の成果から学んでいかなければならないでしょう。

その範囲は人間生活のすべてに及びます。宇宙、自然との関係から、人間同士の在り方に至るまで、人間は常に学ばなければならないのでしょうし、また、学び、知り、理解することに喜びを感じるのが、人間の性でしょう。

しかし、たまたま政治家として君臨して権力を握るうちに、権力に惑わされ自我を過剰成長させ、自らを学術の上に置き、学術の大切さを見失い、自らが学術の支配者と思い違う人が出てくるようです。

秦の始皇帝の焚書坑儒やカンボジアのポルポト政権の知識人虐殺などの例はよく引かれますが、中国の文化大革命などもその列に入るのかもしれません。

日本でも、安倍・菅政権は、日本学術会議と対立し、対話を拒むという状態を作り出しました。
しかし現実の政治の場では、コロナ問題で菅総理の記者会見に専門家の同席援助を仰ぐなど、学術軽視に至らなかったことは建前と違う内実を示すものだったのでしょう。

しかし、日本の学術の最も重要な組織である日本学術会議との対話を政権が拒み続けるといった状態は、国民としては当然先行きを危ぶむことになるわけで、心配する人は随分多かったのではないかと思っていました。

以上が何故「言祝ぐ」などという大層な言葉を使ったかの理由ですが、いずれにしても今回の岸田、梶田会談は、日本の先行きへの徒な障害を取り除くための一歩として、まさに「言祝ぎ」たいと思うところです。

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