tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

改めて「争いの文化」と「競いの文化」の違いを考えよう

2020年01月06日 23時32分48秒 | 文化社会
改めて「争いの文化」と「競いの文化」の違いを考えよう
 2017年の「文化の日」に >「争いの文化」と「競いの文化」について書きました。その後、オリンピックの話題などとの関連で、この問題を論じた事も何回かあります。

 そして残念ながら、日本でオリンピックが開催される2020年の新春に至って、改めてこの問題を考えなければならないような事態が起きてしまいました。

 人間はもともと、何らかの形で「他者より優れた存在でありたい」という欲求を持っています。これが人間社会を進歩させてきた原動力でしょう。
 
 勿論、この欲求は、人間、そして人類社会にとって大変大事なものだと思うのですが、その優位性の確立、簡単な言葉でいえば「他者に勝つ」には大きく2つの方法があるように思うのです。
ひとつは「争い」で、もうひとつは「競い」ではないでしょうか。

 ということで、「争いの文化」とは、基本的に、「相手を亡ぼして」あるいは「相手を服従させて」自分の優位を確立する」という文化でしょう。
「競いの文化」の方は基本的に、オリンピックのように「互いに競い合い」自分の目指す能力を伸ばすことで他者に勝つという文化でしょう。

「争いの文化」では、結果的に競う相手がいなくなりますから、そこで進歩は止まり、堕落・衰退につながるのが一般的なのです。
 一方「競いの文化」では、相手は負けますが、捲土重来を期して、次は勝とうと自分の能力を磨き、結果的に切磋琢磨してレベルが向上していくということになります。

 古代ギリシャでは、オリンピックの期間中は戦争は止めるというルールを作り、「競いの文化」を「争いの文化」より高次なものと考えていたのではないでしょうか。

 しかし今、覇権国アメリカがやっていることは、まさに「争いの文化」で、相手を再起不能にするために何をするかが最大の問題になっているようです。

 相手を殺害して自らの手柄とし、報復には更なる破壊(文化遺産まで)を提示して服従をさせるといった「争いの文化」の典型が、偶然にもオリンピックの年に、並行して起きるのが現代社会だとすれば、人類社会は、2000余年前と比べても、進歩どころか退歩しているという事に なるのではないでしょうか。