<このブログは tnlaboratory's blog に名称変更し「はてなブログ」で継続しています>
AIが人間を超えられるかなどと言う議論が真面目に行われる時代になってきました。
万物の霊長である人間は「発達した大脳」を持つことで地球世界に君臨することになりました。その自信が脅かされるという心配でしょうが、その必要はないように思っています。
暇潰しにオセロをやることがあります。オセロが「私は初級です」などと自己紹介をします。やってみると殆ど負けです。たまに勝つと嬉しいです。
関数電卓を使います。この30年間の伸びの年率換算、30乗根です。私には計算不能ですが電卓は即座に計算します。とても敵いません。
でも、便利と思うだけで、電卓にコンプレックスなど感じません。
AIになると更に便利です。今回の選挙ではこんな言葉が多用されたので国民の関心は大きい順にこんな問題ですなどと統計分析の結果を教えてくれます。
最近便利に使われているのは、多様な言語の翻訳機械です。英語ならとOKと威張ってみても、アジア諸国、アフリカ諸国というわけにはいきません。しかし翻訳機は日に日に進化しているようです。
車にはナビゲーターがついています。最近のナビは、AIも組み込まれていて、色々なことを教えてくれるようです。
こうして、われわれはいろいろなことをAIに頼むようになってきています。そして人間の努力でAIは急速に進化しています。
人間はますますAIに頼るようになって、自分では考えないようになるのでしょうか。「おみくじ」に頼るようにAIに頼ることになるのでしょうか。
多分人間はそうはならないでしょうと多くの人は考えているでしょうし、それが正しい判断だと思われます。
何故かというと、人間には欲があるからです。そのうちに欲を持ったAIが出てくるかどうかは知りませんが、人間は、ある意味では怠惰で、その上に欲望を持っていますから、自分の欲望を満たしてくれるものがあれば、必ずそれを利用して、より多くの、難しい欲望を充足しようとするでしょう。
つまりAIは、人間の要望を満たすために利用されるという役割で存在するという事になるのでしょう。
人間の欲望と人間の文化は基本的に関係があるようですが、このブログでは人間は2種類の文化を持っていると思っています。
それらは「競いの文化」と「争いの文化」です。
人間の欲望は相手に勝ちたいという意識につながり、それが人類社会の発展の原動力になっているのでしょう。
勝ちたいという欲望の発現の形ですが、優れた相手を超えようと努力するのが競いの文化で、相手を倒して勝とうというのが争いの文化です。これは古代ギリシャの昔からオリンピックと戦争という形で共存しています。
古代ギリシャでは競いの文化をより高い文化とし、オリンピックに期間中は戦争を中止しています。
AIは今、兵器に組み込まれています。人間だけが文化を持ち、機械は文化を持ちません。その人間が、AIを争いの文化に組み込み、相手を倒すことに熱心です。AIが文化を持ったら「ヤメトケ」言いそうですね。