tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

国会の議論の矮小化の責任は誰に?

2018年03月26日 21時46分29秒 | 政治
国会の議論の矮小化の責任は誰に?
 昨年春から、テレビの国会中継を見れば、森友、加計、森友、加計、そして今また森友です。

 日本の進む道、日本経済・社会の行く先を議論すべき国会の場で、特定の個人の経営する学校に流れた政府のカネをめぐって、本当はもっと、もっと大きな、大事な議論をすべき国会の時間が費やされている現実を見て、やりきれない気持ちになる人は多いでしょう。

 勿論、こうした問題が起きてしまったからには、きちんと決着をつけなければ、誰も納得しないことは当然です。

しかし、突き詰めていけば、今起きている問題自体もさることながら、こんな問題がなぜ起きてしまったのか、という事、つまりこんな(馬鹿馬鹿しいと言っては語弊があるかもしれませんが)与党と野党と官僚が泥仕合まがいの事をやるような事態がなぜ起きてしまったのかという所に基本的な原因にあるような気がしています。

 与党も野党も政府も、国民が、どこからどう見ても納得する、確かに国民のために真剣に取り組んでいてくれる、と感じるようなことをしてくれていれば、それぞれに多少の意見の違いはあっても、「まさしき願いにいさかうとも、銀河の彼方に共に笑い」(宮沢賢治『ポラーノの広場』)という気持ちで、気持ちよく国会中継を見ることが出来るでしょう。

 そういう意味では国を動かす重要な役来を担う政治家や政府・官僚は、最低限その役割にある間はいやしくも疑いを掛けられるような事はしない。という気持ちでないといけないのでしょう。

 そうした人間の取るべき行動の在り方を古人の知恵として伝えているのが「 李下に冠を正さず、瓜田に靴を入れず」という事ではないでしょうか。
 この本来の意味は「たとえ罪を犯していなくても、犯したと言われるようなことになった自分に責任がある」という事です。

 勿論それは理想論で、そこまで考えたら何もできないという意見もあるでしょう。しかし西洋にも「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。
 世の中で重要な地位にある人ほど、自分の行動に気をつけなければいけないという「人間として心すべき考え方」がその底にあるのでしょう。

 明日の証人喚問で何が出てくるのかは解りませんが、重要なポストにある人々は、法律ギリギリではなく、そのずっと手前、「人の道」あたりできっちりと行動を律してほしいものです。