Altered Notes

Something New.

ウェイン・ショーターとウェザー・リポート

2021-02-02 17:30:00 | 音楽
↑写真は黄金期のウェザー・リポート
ジョー・ザヴィヌル、ウェイン・ショーター、
ジャコ・パストリアス、ピーター・アースキン



テレビの音楽番組にせよビデオのパッケージソフトにせよ、ミュージシャンや音楽グループのコンサートを映像で記録してリリースしてくれることは、そのミュージシャンに関心を持つ人々からみればありがたいことである。ただ、そのミュージシャンの「どの時代」を記録してくれるか、は大問題である。結論から言えば、そのミュージシャンの「最も旬な時期」の記録を取って欲しいのだ。だが、映像屋さんには「いつがその演奏家の旬なのか」が判らないのだ。そもそも音楽をよく知らない人たちだから仕方ない?…では済まない気がするのだが・・・。つまり映像ソフトは商品でもあるが音楽文化の貴重な記録でもあるからだ。

今でも思い出すが、昔、毎年夏に開催されるライブ・アンダー・ザ・スカイという野外のジャズフェスティバルがあった。これを数年間だけだが日本テレビが収録して放送していた時期があった。…とは言っても数日間に及ぶライブ全体を45~60分程度にまとめた(しかもCMが入るからさらに短くなる)番組なので各ミュージシャンの演奏はほんのさわりだけしか視られない(聴けない)事になる。酷いのは日テレのポストプロダクション(撮影後の映像編集・加工処理)である。こちらは純粋に音楽家が演奏している様を視たい(聴きたい)のに映像屋は余計な特殊効果を入れることでライブ映像の価値を台無しにしてしまうのである。言うなれば映像屋のマスターベーションだ。「こんな特殊効果もできるんだぞ」という(音楽と無関係の)子供の自慢程度の処理であり、それがかえって音楽の価値をぶち壊している事に全く気が付かない阿呆な連中なのである。テレビ屋のレベルというのはこんなものだ。実に腹立たしい。

最初から話がずれている。
閑話休題。

これ↑を話の枕にしたのは他でもない、ウェイン・ショーターが大きく活躍したウェザー・リポートというバンドの最も旬な時期、最も音楽の最高到達点に達した時期の映像記録がほぼ無いからである。TV屋さん映像屋さんには判らないのだろう。実に残念なことだ。

ウェザー・リポートは結成された1970年以降、数回来日しているのだが、1972年の初来日時も非常に音楽的に素晴らしい時期だったにも関わらず映像記録は無い。(オーディオ記録はある。「ライブ・イン・トーキョー」というライブアルバムが出ている)また、ジャコ・パストリアスが加入して以後の1976年以降は数回来日しているが、このジャコが在籍していた当時のバンドとして最も最高レベルに到達した時期の映像記録もほぼ無い。映像屋さんには音楽は判らないのだ。(*0)

ここからが本題で、このジャコ在籍時の1980年に来日したウェザー・リポートの東京公演(数回あった)を筆者は全て聴きに(見に)行った。これはもう群を抜いて素晴らしかった。オープニングはジョー・ザヴィヌル(kbd)とジャコ・パストリアス(b)の二人だけで演奏する「8:30」だった。但しジャコはベースではなくドラムを演奏した。同名タイトルのアルバムでも同じくドラムを演奏している。(ちなみにアルバム「ヘヴィーウェザー」内の「ティーンタウン」でもドラムを演奏している。ジャコはドラム奏者でもある)

その「8:30」がエンディングに突入し、まだ音楽が鳴っている内に舞台が暗転して、その間に残りの3人(ウェイン・ショーターとピーター・アースキン(ds)、ボビー・トーマス・Jr(perc))が登場して次の「Sightseeing」に突入する。疾走感のある速い4ビートの曲である。ウェインの作曲だが、アドリブ区間は調性を設定せず(ソロイスト交代時に一部の取り決めがある以外は特に設定はない)に全員が即興で演奏する。その瞬間にその場で自由に音楽を作り上げていく正にジャズの醍醐味そのものが怒涛の勢いで展開されたのであった。

参考までに、このような演奏である。↓
Weather Report - Sightseeing Live 1980

↑これはカリフォルニアのサンタクルーズでの演奏だが、東京公演のそれは”これの2倍は凄かった”、と断言できる。その記録が無い事が悔やまれて仕方がない。テレビ屋やビデオ映像屋に対して「なぜこの時の公演を記録しなかったんだっ?!」と怒鳴りつけたいほど・・なのだ。(笑)

この記事のテーマであるウェイン・ショーターの演奏も非常にクリエイティブで”楽器の鳴り”も非常に良い時期だったのである。上記の東京公演の演奏もあまりに凄すぎて、もはやウェザー・リポートではなくウェイン・ショーター・クインテットではないか、と思えるほどであった。

そのウェザー・リポートだが、Wikiの説明に依ると「ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターの2人が中心になり」結成された旨が記されているが、これはやや違う。この2人にベースのミロスラフ・ヴィトウス(*1)を加えた3人が中心になって結成されている。当時の音楽メディアも「トロイカ体制」という言葉でこの3人を表現していたくらいである。ただ、演奏活動が進行してゆく内にジョー・ザヴィヌルの発言力が大きくなってきたこととバンドの音楽が次第にエレクトリックサウンドやファンクリズムに彩られるようになってきたことでアコースティック・ベース中心に演奏するミロスラフの居心地が悪くなってきた。なお、ミロスラフはエレクトリック・ベースも演奏はする。

ミロスラフ・ヴィトウスが脱退した後は正にジョーとウェインの二人が中心のグループになったのだが、ジョー・ザヴィヌルという人物の個性の強さはウェザー・リポートにとってメリットとデメリットをもたらした、とも言える。メリットはジョーがグループ全体のサウンドデザインを含めてプロデューサーとして貢献できたことであり、デメリットはその個性の強さ故についついジョー・ザヴィヌル色が色濃く出てしまう点であった。この辺の事情は下記のリンク先の記事に詳しいので参照されたい。

ウェザーリポートとは誰のバンドだったのか?

リンク先記事の筆者さんは1970年代後半に於いてジョー・ザヴィヌルの影響力が大きくなり、相対的にウェインの活躍度合いが減っている旨説明されているが、それには訳があるのである。これはもう音楽の話ではなくなるが…ウェインと当時の奥さんの間にはイスカという名前の小さなお子様(娘さん)が居たのだが脳に深い障害があったことで、その娘さんの子育てが尋常でなく大変だったのである。かなり壮絶だったようだ。私生活の事であるとはいえ、その状態で存分にクリエイティブな創作活動を両立させるのは相当に困難があったものと容易に推察できるのである。そういう背景があったことでこの時期はジョー・ザヴィヌルに多くを預けていた…のかもしれない…と想像されるのだ。


ところで、あまりご存じない人たちからは「ウェザー・リポートはフュージョン・ミュージックのグループ」であると認識されているが、それは間違いである。ウェザー・リポートは完全にジャズのグループだ。それもモダンジャズの最高到達点の一つとして認識されるべきバンドだ。

誤解を恐れずに言うならばロックや狭義のフュージョンは書かれた(作曲された)ものを決まったとおりに演奏する事が中心になるが、ウェザー・リポートの場合は書かれたもの(作曲された部分)は単なるモチーフ(ある種の手がかり)でしかなく、ライブで実際に演奏される内容はその時その場の考えや気分で自由に変わってゆくのである。前述の「Sightseeing」の演奏をお聴きいただいても判ると思うが、即興要素の非常に多い音楽である。もちろんその度合は曲に依って異なる訳で、「バードランド」のようなポップスのリスナーにも聴き心地の良いナンバーもある。しかしライブでの演奏は非常にジャズを感じさせるものがあり、スリリングな展開が魅力的だったのである。ちなみに1982年のプレイボーイ・ジャズ・フェスティバルではこの曲でコーラスグループのマンハッタン・トランスファーと後にも先にもたった一度だけの共演をしている。下記を参照されたい。

Birdland Weather Report Manhattan Transfer

一度ウェザー・リポートだけで「バードランド」のハイライトたる後半部分だけ演奏し一回終了する。しかし直後に再び「バードランド」のイントロが始まり、ステージ袖からマンハッタン・トランスファーの4人が登場し共演が始まる。およそあり得ない共演が現実になったことで聴衆は心底喫驚したことだろう。驚天動地の心境だ。高山一実(乃木坂46)さんなら「アメイジング!」と叫ぶところだ。それはさておき、この時期にはウェザー・リポートはこの曲をシャッフル・リズムで演奏していたが、歌唱するマンハッタン・トランスファーの為に(オリジナルのイーブンな)8ビートで演奏しているのが興味深いところだ。但し後半のリフレインのパートはシャッフル・リズムになる。このリフレインだけならシャッフルでもマンハッタン・トランスファーも対応可能だからだ。ちなみにこの時期のウェザー・リポートのドラムはオマー・ハキムである。(*2) 後にマドンナやスティングのバックバンドでも演奏した彼だ。実に音楽的にドラムを演奏できる秀逸なドラマーの一人である。


ウェイン・ショーター個人の話に戻す。

ウェザー・リポート時代のウェインはジョー・ザヴィヌルの創造性と協調する形で音楽を作ってきたのだが、1980年代の半ば近くになってくるとウェイン自身が創造したいものが具体的な形になってきて、それはウェザー・リポートの路線とは異なるものだったようである。それが一つの形として結実したのが1985年の「Atlantis」である。ここではウェザー・リポートの音楽とそう遠くはないのだがしかし非常にモダンでウェインらしい人間的な音楽を創っていると言えよう。その流れは1990年代まで続く。1980年代後半はウェインの長い音楽人生の中でも初めての自身のリーダー・グループを編成してツアーに出ている。(*3) この時に日本にも来ていて、筆者は当時の六本木ピットインとコンサートホールで2回聴いたが素晴らしい内容であった。1988年にはカルロス・サンタナとの双頭バンドでツアーに出ている。モントルー・ジャズ・フェスティバルでの演奏が下記のリンクにあるので参照されたい。

Wayne Shorter & Santana - Elegant People (Live at Montreux 1988)

ウェインとカルロス・サンタナは互いにリスペクトし合う仲であり、音楽的にも精神的にも認め合っている。サンタナ曰く「ウェインは音楽に於けるピカソだ」と。
上記の演奏者はウェイン側のメンバーとサンタナ側のメンバーがほぼ半分ずつ参加した特別編成のバンドである。レオン・チャンスラー(ds)とアルフォンソ・ジョンソン(b)はウェザー・リポート中期頃の仲間だった演奏者だ。曲はウェインがウェザー・リポート時代に書いた「Elegant People」である。

ウェイン自身のバンドでのモントルーのライブ(1996年)もある。下記を参照されたい。

Wayne Shorter - Endangered Species, Montreux 1996

ベースはアルフォンソ・ジョンソンである。ドラムの若きロドニー・ホームズが強力なグルーヴ感をプッシュしている。

ウェインの1980年代後半~1990年代はこうしたエレクトリック・サウンドとグルーヴするリズムに支えられたモダンな音楽で自身の個性と音楽の中に普遍的な価値を構築していたのだが、やがてウェインは「より即興演奏に帰依するスタイル」に変貌してゆく。アドリブを最重視した演奏であり、かつバンドのスタイル自体がアドリブを基本とするものである。サウンド面もアコースティックになり、電気楽器は姿を消した。サックス・ピアノ・ベース・ドラムに依るアコースティック・カルテットを自身のホームグラウンドとしたのだ。これが2000年のことである。下記のリンクを参照されたい。

Wayne Shorter Quartet - Live In Paris 2012

ダニーロ・ペレス(p)、ジョン・パティトゥッチ(b)、ブライアン・ブレイド(ds)がリズム・セクションを務めるカルテットはウェインが求める高い音楽性と即興演奏の能力を兼ね備えたメンバー達である。ベースのジョン・パティトゥッチはチック・コリアのアコースティック・バンドやエレクトリック・バンドでもお馴染みの名手だ。このバンドでウェインは非常に難しいテーマをバンドに与えている。それは一度作曲された曲を解体しながら同時に再構築してゆく、というものだ。楽器の演奏能力以外に豊かな即興対応能力とセンス、そして音楽を多彩に解釈できる力などが求められるのだ。突き詰めれば深い精神性という領域にも関わるものであろう。晩年のウェインが辿り着いた世界がここなのである。

グラミー賞を6回受賞しジャズ音楽家として極めて評価が高くレジェンド的な存在のウェインだが、2021年現在、病気療養中で演奏活動はしていない。2019年にはサンフランシスコのSFJAZZでカルテットでの演奏が予定されていたが、ウェインの病気によってキャンセルになった。この事態を受けた盟友のハービー・ハンコックがウェインの医療費を集めるためにトリビュート・コンサートを企画し計4回の公演を実施している。


早期の治癒・回復と音楽活動への復帰を衷心から願うものである。




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(*0)
余談だが、この1976年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの一環としてカーネギーホールで「ハービー・ハンコックの追想」という企画のコンサートがあった。この中で”マイルス・デイビスの60年代の黄金クインテットを1回だけ復活させる”という目玉企画があり話題になった。マイルス自身は出演しなかったが代わりにフレディ・ハバード(tp)が加わってマイルス時代の黄金クインテットの演奏が再現された。メンバーはハービー(p)、フレディ(tp)の他にウェイン・ショーター(ts,ss)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)である。この夜の演奏は正に歴史的なもの(V.S.O.P.と銘打たれた)でありライブアルバムは出たのだが映像記録は筆者が知る限りでは無い。そして、1977年にはこの同じメンバーで来日している。有名なV.S.O.P.クインテットである。東京では田園コロシアムで演奏したのだが、その歴史的なライブに対しても映像記録は無いのだ。(ライブアルバムは出たが)これは本当に映像で残しておいてほしかった。映像屋もテレビ屋も真に価値のある音楽が判らないのだろう。だからこんな貴重な機会をみすみす逃しているのだ。

(*1)
ミロスラフ・ヴィトウスはチェコ出身のベーシストである。十代の時に音楽コンテストで入賞した事があるが、その時の審査員にジョー・ザヴィヌルが居た。

(*2)
当時アメリカで放送されていた夜の音楽番組「NIGHT MUSIC」でもデビッド・サンボーンらと共にハウスバンドのメンバーとしても活躍した。

(*3)
ウェイン・ショーターの長い楽歴の中でも初めてリーダーバンドを結成したのがこの時である。それまでのウェインは、アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズでの音楽監督、マイルス・デイビス・クインテット(*3a)での活躍(一部音楽監督も兼ねる)、そしてウェザー・リポート等々、その存在感の大きさで知られてはいたが、自身のリーダーバンドは持っていなかったのである。

(*3a)
マイルスの楽歴の中でも最高位に位置する、俗に言う「黄金のクインテット」である。現代ジャズの最高到達点として群を抜いてハイレベルなバンドであった。