京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

京町屋下京(18)松楳園、佐*家、八木米一堂、四軒町屋、ひさご、ひご久、GRRGANTUA、割烹たいら

2020-01-29 18:29:15 | 京都の町 町屋・建造物


京都の町屋下京区。第18回です。

松楳園





佐*家










八木米一堂






四軒町屋





ひさご






ひご久





GRRGANTUA





割烹たいら





町屋外観の特徴
屋根
一階庇の最前列は一文字瓦で葺いています。
横の一直線と格子の縦の線の調合が町屋の外観美の一つです。
格子
格子は戦国時代からで、内からは外がよく見え、外からはよく見えないようになっています。
家の商いや家主の好みでデザインが異なります。
上部が切り取られた「糸屋格子」、太い連子の「麩屋格子」、「炭屋格子」、重い酒樽や米俵を扱う「酒屋格子」、「米屋格子」、繊細な「仕舞屋格子」などがあります。格子を紅殻で塗ったものが紅殻格子。
ばったり床几
元々は商いの品を並べるもので、後に腰掛け用に床几として近隣との語らいの場でした。ばったりとは棚を上げ下げするときの音からきています。
店の間の外観
軒下に水引暖簾、大戸に印暖簾を掛けます。
虫籠窓
表に面した二階が低くなっている「厨子二階」に多く見られる意匠。
防火と道行く人を見下ろさない配慮と言われています。
犬矢来
竹の犬矢来は割竹を透き間なく組んだものから、少し透かしたものまでさなざまです。
直線的な町屋の表情を和らげてくれます。






明智光秀の天寧寺と織田信長の阿弥陀寺

2020-01-29 05:40:08 | 京都歴史散策


今年1月19日にNHK大河ドラマは『麒麟がくる』がスタートしました。
明智光秀は京都にゆかりがあり、そういう場所ではさまざまな取組が計画されているようです。
私の家では、妻がNHKの朝ドラと大河ファンで欠かさず視聴しています。
私は朝ドラの時間は散策に出かけており、大河の時間帯は入浴時間です。
そんな大河ドラマに不熱心な私でも、本能寺で織田信長を討った、明智光秀には興味があり、今回どんな描かれ方をするのか気にはなります。
私のblogカテゴリー「京都歴史散策」で昨年、「明智光秀の首塚」(6/25)、「旧本能寺跡と織田信長」(8/29)、「織田信長と旧二条城」(9/23)などを投稿してきました。
今から20年ほど前に寺の屋根裏から明智光秀の位牌が出てきた天寧寺と、織田信長の供養塔がある阿弥陀を訪れました。

天寧寺
北区寺町通りの曹洞宗の寺院で、『額縁門』が有名で何度か私も訪れています。
山門から見える比叡山が美しいです。








駒札





本堂、書院、唐門





ツツジが咲いています。









本堂、庫裏入口





近くに『明智光秀公報恩塔』が建っています。





石碑にはこの云われが彫られています。





『平成十一年本堂修復工事の際須弥壇の屋根裏から明智光秀公の位牌が発見された。天正年間と伝えられる会津天寧寺の上洛に係わる報恩のためか。』とあります。

発見された当時の新聞に面白い記事が出ています。
『天寧寺の本堂の天井裏から明智光秀の位牌が出てきたことが話題になった。光秀の死後数百年経た江戸時代に作られたものらしい。
「謀反人」という世評もあるため天井裏に置かれたのだろうが、ちょうど本尊の上あたりに置いていたというから、寺としては相当に大事にしていたのだろうと思われる。
なぜこの寺に置かれていたか定説はない。天寧寺はもともと会津藩にかかわる寺で光秀との関係は考えられない。
だがこの寺が建つ以前は比叡山延暦寺の末寺、松陰坊があったという。延暦寺への参拝前に宿泊するような施設だったようで、今も境内から比叡山が美しく望める。特に門から見る山は絶景で、「額縁の門」の名を持つ。
光秀の位牌は松陰坊、ひいては延暦寺と光秀の関わりの深さを物語るもので、それを寺が変わった今も守っている-ということである。
光秀と比叡山で思い出されるのは、元亀2(1571)年9月の比叡山の焼き打ちだろう。実行部隊として信長に従ったものの、教養が高く、信心深い光秀にとっては耐え難い行為だったかもしれない。
このためだろうか、神仏の嫌いな信長は焼き打ちの戦後処理を光秀に任せたうえで比叡山の麓に領地を与え、光秀は延暦寺のおひざ元・坂本に城を構えることになる。
このころから、光秀は信長の中に「鬼」を見ていたのではないか。
その後、かつて仕えていた朝倉義景と浅井久政・長政親子の頭蓋骨に金箔を張って酒宴を催し、一向一揆では信者を大量虐殺するなど、光秀にとって非情な出来事が次々起こる。
そして、本能寺の1カ月前。武田家を滅ぼした徳川家康と酒宴を催した際、接待役を任された光秀が因縁をつけられた揚げ句、中国で毛利軍と戦闘中だった格下の羽柴秀吉の援軍を命じられる始末…。
どこまでが事実かは不明な点はあるが、信長が光秀に仕打ちを行ったエピソードは数限りない。
天正10(1582)年5月27日、光秀は丹波(現在の京都府亀岡市)の亀山城から「明智越え」を経由して愛宕山を参拝する。愛宕神社の本地仏が勝軍地蔵のため、戦勝祈願に出向いた光秀は何度もくじを引いたという。
翌日の連歌会で光秀が詠んだ句は「時は今 あめが下しる 五月かな」。
「時」は光秀の出身の土岐氏。「あめが下しる」は「天が下知る」に置き換えることができ、天下取りを意識した句だいうのが大方の見方だ。
6月1日夕刻、秀吉の援軍に向かうとして、1万3千の兵を率いて亀山城を出た光秀は重臣に謀反の意志を伝え、桂川を渡ったところで全軍にあの名文句「敵は本能寺にあり」と伝えたという。
山陰街道から七条通に入った明智軍の先鋒は斎藤利三が務め、暗がりの中で町内ごとにある柵を開かせながらスムーズに本能寺に近づいた。さらに嫡男・信忠のいる妙覚寺へと軍を進めていく。
わずかな手勢しか率いていなかった信長・信忠親子を夜明け間近に襲った計画は信長の虚を突く、いくさ巧者の光秀らしい作戦だった。』とあります。

上記記事はなかなか興味がそそられる内容です。
その天寧寺のある場所から寺町通りを数百メートル南下するところに、織田信長の菩提寺の阿弥陀寺があります。

阿弥陀寺










駒札





本堂





以下wikipediaより
『阿弥陀寺は京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町にある浄土宗の寺院である。山号は蓮台山。院号は総見院。本尊は阿弥陀如来。
創建年 天文24年(1555年) 開基 玉誉清玉
天文24年(1555年)玉誉清玉が近江国坂本に創建したのがこの寺の始まりとされ、その後清玉が織田信長の帰依を得、上京今出川大宮に移転。
天正10年(1582年)、信長が本能寺で討たれると、清玉上人が自ら現地に赴いて信長の遺灰を持ち帰って、墓を築いたとされる。後に信忠の遺骨も、二条御新造より拾い集めて、その横に墓をなした。さらに本能寺の変の名の分からぬ犠牲者大勢も、阿弥陀寺に葬って供養したという。
天正13年(1585年)、現在地に移転した。延宝3年(1675年)11月25日に大火あって、信長公の木像、武具・道具類などの遺物が焼失した。焼け残ったものは大雲院に移されたが、同院でも再び火災にあってほとんど現存しない。
美作国津山藩の4代藩主森長成は毎年6月2日に法要をし、信長公百年忌も執り行ったと云うが、森家の改易後は御茶湯料の寄進はなくなったとする。
織田信長廟
織田信長(総見院殿贈大相国一品泰巌大居士)
織田信忠(大雲院三品羽林仙巖大居士)
供養墓 森成利(蘭丸)・森長隆(坊丸)・森長氏(力丸)の兄弟、福富秀勝、津田権之佐信貞[3]、津田九郎次郎、赤座七郎右衛門、団平八郎、湯浅甚介、櫻木傳七郎、青柳勘太郎、桑原吉三

また別の京都観光案内書では
『浄土宗寺院・百万遍知恩寺末。信長の帰依を受けた清玉上人開山、当時蓮臺野芝薬師に塔頭十三ケ院、八町四方の伽藍を構えていた織田家の菩提寺。信長公本廟たる由縁は、天正十年六月二日未明、信長公宿所たる本能寺の異変を清玉上人は察知し、駆けつけるが間に合わず、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰る。その後明智光秀の陣を訪ね、戦闘の停止と、嫡子信忠・森蘭丸等、当日本能寺、二条城にて自刃・討死した織田家中百余名の遺骸の収容・供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉は阿弥陀寺にて供養、墓を建てた。今も信長はじめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されている。その後秀吉の寺町造成に伴い寺域を縮小、移転され現在の場所に移る。信長公本廟とは、大正六年位階追陞(信長公に正一位を追贈する儀式)の為に宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認され勅使の来訪があった。六月二日のみ「信長忌」勤修の為堂内拝観可。併せて各種寺宝公開。6月2日「信長忌」勤修』とあります。

玉誉清玉について

清玉上人の母親が妊娠中に道端で倒れたところを、信長の兄が助けました。
母親は清玉上人を産み落としてすぐに亡くなったので、清玉上人は織田家の中で育てられ、援助を受けて阿弥陀寺の住職になったと言われています。織田信長ら織田家は清玉上人にとっては恩人の存在だったのです。
清玉上人はその恩に報いるように本能寺の変の直後に駆けつけたのではないでしょうか。
そうでなければ、変の直後に織田信長の遺品などを集めることは不可能だったと思います。

以上明智光秀にゆかりがある天寧寺と織田信長ゆかりの阿弥陀寺の散策記録でした。