(岡寺山継松寺へ厄落としの参拝者)
松阪市の3大祭りの1つ初午大祭が、平成30年3月2日から始まっています。松阪市中町の厄除け観音で有名な岡寺山継松寺には、厄年の人などたくさんの人がお参りしています。
この祭りは松阪市観光協会と岡寺山継松寺が主催して3月の最初の午の日に行われ、今年は3日が本日ですので、3月2日が宵宮、3月4日が余福祭となります。本日の今日3日には厄年の女性を乗せて町中を練り歩く「松阪厄まいり宝恵駕篭道中行列」が行われました。
今年は宵宮も本日も穏やかな日で街は大変賑わいました。
岡寺山継松寺は聖武天皇の勅使によって創建されたとされる日本最古の霊場で、同寺の初午祭は県内の仏教寺院の例祭としては最大級の祭りであるということです。
厄年の男女が参拝して、ハンカチなどを落とし厄除けします。また出店では「厄をはじき去る」という縁起物「猿はじき」や、「ねじりおこし」が販売されています。
初午大祭は私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります
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(まちなかの賑わい)
初午大祭について
松阪の初午大祭は祇園祭り、氏郷まつりと並ぶ松阪3大祭りの1つで、3月の最初の午の日の前後3日間(宵宮、本日、余福祭)に渡って行われます。この祭りでは厄年の男女などが松阪市中町の岡寺山継松寺に厄落としのお参りします。
◆岡寺山継松寺の由来
岡寺山継松寺は、地元の人には「岡寺さん」と呼ばれ、天平15年(743)聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したとされる日本最初の厄除け観音の霊場で、ここで行われる初午祭は県内の仏教寺院の祭礼としては最大です。
ご本尊の如意輪観世音菩薩は奈良時代に大洪水で海に流出したことがあり、二見浦三津の猟師が網で引き上げたとされています。この三津の猟師は後に継松法師となり、石津に大伽藍を建立しましたが、この継松法師の名前をとって継松寺と名付けられたとされています。
また弘仁(810~823)の昔、寺が炎上したとき、本尊の如意輪観音はみずから飛んで境内の杉の木に隠れたといい、住職も杉の木を握って火災を叩き伏せたという謂われがあります。
継松寺はもともと石津(現 松阪市石津町)にあったものを慶長17年(1612)松阪城主古田重治により現在の場所(松阪市中町)に移転されています。
◆厄落としのお参り
岡寺さんにお参りするのは、女性では19歳、33歳。男性は25歳、42歳、61歳で、この内男性の42歳は“男の本厄”、女性の33歳は“女の本厄”といいます。
またお参りするときは厄年の同年のものどうしでは一緒に行かない、お参りした後うしろを振り返ってはいけない、寄り道をしてはいけない、途中買い物もしない。岡寺で遊ぶ場合はいったん家に帰って出直をするということです。またハンカチや櫛、小銭いれ・財布など日常身に付けているものを故意に落として“厄落とし”とすることも行われています。
(松阪厄まいり宝恵駕篭道中行列)
◆宝恵駕篭
花街が盛んであった戦前には、川井町や愛宕町から厄年の芸者衆や女郎衆が着飾って宝恵駕篭(ほえかご)に乗って厄落としのお参りをしました。この駕篭を担ぐ法被姿のダテ男が息杖をついて歌をうたいながら岡寺に乗り込んだということです。
この宝恵駕篭は、戦後は行われていなかったが、平成21年に60年ぶりに「厄まいり宝恵かご道中行列」として復活しました。着物の袖を振り「厄を払い」、袖を振って「幸せを招き入れる」との謂われがあり、厄年の女性を中心に、家族も一緒にお参りする道中行列です。
◆猿はじき
初午祭の界隈を歩くといくつかの店で目につくのが「猿はじき」です。この玩具は江戸時代に始まったといわれ、「厄をはじきさる」という縁起ものです。猿はじきによく似た玩具で「弾き猿-はじきざる」というのがありますが、「猿はじき」は松阪独特の呼び方です。
私の古い友人で、岡寺さんの近くで中野時計店を経営する中野良一さん宅では前年の10月から11月に孟宗竹を取ってきて、年明けから家族総出で猿はじきを作ります。同時計店では年中猿はじきを買うことができます。
◆ねじりおこし
初午のみやげものとして、猿はじきとともに人気のあるのが「ねじりおこし」です。牛馬に引かせた鋤で田を起こすと、土が反転し、「ねじりおこし」と全く形になることから、春の農耕が始まる前に牛馬の厄を落とす縁起物になったといわれています。
東京の庶民に親しまれている「雷おこし」は松阪出身の人がねじりおこしをヒントに開発したといわれています。
◆見世物小屋や露商の賑わい
私たちが子どもの頃には、岡寺境内には見世物小屋が建ち並び、拡声器による呼び込みが行われていました。私は見世物小屋に入ったことはありませんが、興味あるものでした。
明治12年の伊勢新聞の記事には、「継松寺の観音へ近郷近村から老若男女が群集し、門前には実に錐のたつるの余地も無き程なれば・・・・」と混雑する境内の様子が書かれています。
露天商は時代の流れとともに売るものは変化してきますが、参拝する人々の祭りへの昂ぶりを演出してくれます。
松阪市の3大祭りの1つ初午大祭が、平成30年3月2日から始まっています。松阪市中町の厄除け観音で有名な岡寺山継松寺には、厄年の人などたくさんの人がお参りしています。
この祭りは松阪市観光協会と岡寺山継松寺が主催して3月の最初の午の日に行われ、今年は3日が本日ですので、3月2日が宵宮、3月4日が余福祭となります。本日の今日3日には厄年の女性を乗せて町中を練り歩く「松阪厄まいり宝恵駕篭道中行列」が行われました。
今年は宵宮も本日も穏やかな日で街は大変賑わいました。
岡寺山継松寺は聖武天皇の勅使によって創建されたとされる日本最古の霊場で、同寺の初午祭は県内の仏教寺院の例祭としては最大級の祭りであるということです。
厄年の男女が参拝して、ハンカチなどを落とし厄除けします。また出店では「厄をはじき去る」という縁起物「猿はじき」や、「ねじりおこし」が販売されています。
初午大祭は私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります
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(まちなかの賑わい)
初午大祭について
松阪の初午大祭は祇園祭り、氏郷まつりと並ぶ松阪3大祭りの1つで、3月の最初の午の日の前後3日間(宵宮、本日、余福祭)に渡って行われます。この祭りでは厄年の男女などが松阪市中町の岡寺山継松寺に厄落としのお参りします。
◆岡寺山継松寺の由来
岡寺山継松寺は、地元の人には「岡寺さん」と呼ばれ、天平15年(743)聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したとされる日本最初の厄除け観音の霊場で、ここで行われる初午祭は県内の仏教寺院の祭礼としては最大です。
ご本尊の如意輪観世音菩薩は奈良時代に大洪水で海に流出したことがあり、二見浦三津の猟師が網で引き上げたとされています。この三津の猟師は後に継松法師となり、石津に大伽藍を建立しましたが、この継松法師の名前をとって継松寺と名付けられたとされています。
また弘仁(810~823)の昔、寺が炎上したとき、本尊の如意輪観音はみずから飛んで境内の杉の木に隠れたといい、住職も杉の木を握って火災を叩き伏せたという謂われがあります。
継松寺はもともと石津(現 松阪市石津町)にあったものを慶長17年(1612)松阪城主古田重治により現在の場所(松阪市中町)に移転されています。
◆厄落としのお参り
岡寺さんにお参りするのは、女性では19歳、33歳。男性は25歳、42歳、61歳で、この内男性の42歳は“男の本厄”、女性の33歳は“女の本厄”といいます。
またお参りするときは厄年の同年のものどうしでは一緒に行かない、お参りした後うしろを振り返ってはいけない、寄り道をしてはいけない、途中買い物もしない。岡寺で遊ぶ場合はいったん家に帰って出直をするということです。またハンカチや櫛、小銭いれ・財布など日常身に付けているものを故意に落として“厄落とし”とすることも行われています。
(松阪厄まいり宝恵駕篭道中行列)
◆宝恵駕篭
花街が盛んであった戦前には、川井町や愛宕町から厄年の芸者衆や女郎衆が着飾って宝恵駕篭(ほえかご)に乗って厄落としのお参りをしました。この駕篭を担ぐ法被姿のダテ男が息杖をついて歌をうたいながら岡寺に乗り込んだということです。
この宝恵駕篭は、戦後は行われていなかったが、平成21年に60年ぶりに「厄まいり宝恵かご道中行列」として復活しました。着物の袖を振り「厄を払い」、袖を振って「幸せを招き入れる」との謂われがあり、厄年の女性を中心に、家族も一緒にお参りする道中行列です。
◆猿はじき
初午祭の界隈を歩くといくつかの店で目につくのが「猿はじき」です。この玩具は江戸時代に始まったといわれ、「厄をはじきさる」という縁起ものです。猿はじきによく似た玩具で「弾き猿-はじきざる」というのがありますが、「猿はじき」は松阪独特の呼び方です。
私の古い友人で、岡寺さんの近くで中野時計店を経営する中野良一さん宅では前年の10月から11月に孟宗竹を取ってきて、年明けから家族総出で猿はじきを作ります。同時計店では年中猿はじきを買うことができます。
◆ねじりおこし
初午のみやげものとして、猿はじきとともに人気のあるのが「ねじりおこし」です。牛馬に引かせた鋤で田を起こすと、土が反転し、「ねじりおこし」と全く形になることから、春の農耕が始まる前に牛馬の厄を落とす縁起物になったといわれています。
東京の庶民に親しまれている「雷おこし」は松阪出身の人がねじりおこしをヒントに開発したといわれています。
◆見世物小屋や露商の賑わい
私たちが子どもの頃には、岡寺境内には見世物小屋が建ち並び、拡声器による呼び込みが行われていました。私は見世物小屋に入ったことはありませんが、興味あるものでした。
明治12年の伊勢新聞の記事には、「継松寺の観音へ近郷近村から老若男女が群集し、門前には実に錐のたつるの余地も無き程なれば・・・・」と混雑する境内の様子が書かれています。
露天商は時代の流れとともに売るものは変化してきますが、参拝する人々の祭りへの昂ぶりを演出してくれます。