川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

松坂城跡と石垣

2018-03-15 04:15:36 | 日記
 松阪市の市街地の中心にある松坂城跡は松阪市の歴史・文化の象徴であり、観光や市民の憩いの場として大きな役割を果たしている。松坂城跡は平成18年(2006)4月に(財)日本城郭協会主催の日本100名城に選ばれ、同年10月に日本の歴史公園100選にも選ばれた。また平成23年2月には国史跡に指定された。
 松阪市では平成28年3月に「史跡松坂城跡整備基本計画書」を作成し、現在この計画書に沿って松坂城跡の整備が進められている。

✦松坂城の築城
 松坂城は、今から約430年前の天正16年(1588)に安土桃山時代の戦国武将蒲生氏郷が四五百森(よいほのもり)に築城した平山城である。松阪市内の城の中では阿坂城(白米城)、神山城、大河内城、松ヶ島城のように戦が行われた城がある中で、松坂城では戦は行われなかった。しかし松坂城が造られた時は、豊臣秀吉がほぼ天下を平定したとはいえ、まだ一部の地域で戦が行われており、いつ松坂城に飛び火するかもしれないという時代でもあった。このような時代背景から極めて短期間に築城する必要があり、石垣の石は自然の形のままのものを用いる野面積み工法が用いられたと考えられる。
 この松坂城跡の野面積みの石垣が、平成18年の日本100名城に選ばれたときに高く評価された。

✦城郭の構造
 城は我が国の歴史の中で政治や経済の中心として、大きな役割を果たしてきた。侍の時代が終わり、本来の役割を終えたあとも「城跡」として都市公園や、貴重な歴史的遺産として私たちの生活になじんできた。
 この城跡にはわずかに記録に残っている砦のような簡易なものから、市町や都道府県の文化財、国の史跡、国の重要文化財、国宝に指定されるものまで多種多様である。全国的に見ても各地に存在する城跡は定義にもよるが、2万5千ヵ所とも5万カ所ともいわれている。松阪市内だけでも約百カ所の城跡があるとみられる。
 
 城には山の地形を利用して造られた山城(やまじろ)、平地にある山や丘陵地などに築城された平山城(ひらやまじろ)、平地に造られた平城(ひらじろ)などの種類があり松坂城は平山城に属する。

✦石垣の様式
 石垣の最大の役割は城攻めに対する防御の役目を果たすが、戦国時代が終わった江戸時代に築かれる城の石垣は、支配者の威厳を示す役割があると考えられる。城の石垣工法にはいくつかの種類があるが、戦国時代に造られる城は短期間に造る必要があるため、自然の石をそのまま用いる「野面積み(のづらづみ)」工法が、また戦国時代が終わったあとに造られた城の石垣は景観を重視するため、外側の表面を削り取って隙間なく積み上げる「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」工法が用いられる場合が多い。石垣の様式としては、もう1つ野面積みと切り込み接ぎの中間的な様式で、積み上げる石の外側の出っ張りを削り取る「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」工法があり、松坂城には野面積みと打込み接ぎが用いられている。野面積みの石垣は「乱積み」ともいわれるように一見不安定にも見えるが、排水がよく、石と石の接点が石垣の外側から約10cm内側にあることから石垣を堅固にするとしている。

✦日本100名城の選定
 日本城郭協会が平成19年に財団法人設立40周年を迎える記念事業として「日本100名城」を選定し、平成18年4月6日の「城の日」に認定した(発表は同年2月13日)。この選定対称としては①立地(選地)、縄張、普請、作業が揃っており、これらの要素がよく保存・復元されていること、②城主や家臣にまつわる歴史的事件やドラマの舞台として語り継がれ、当時をしのぶことができる城、③城は弥生時代に誕生、古代・中世と変遷をとげ、織豊時代に美しい近世城郭を完成させ、幕末に終焉した。これらの時代の城郭発達史と地域的特色を代表する城、という城の三要素から総合的に選定された。全国から478城がリストアップされ、47都道府県から1城以上5城以内で選定された。

 平成18年6月24日に松阪公民館において、日本100名城の選定に携わった東京大学名誉教授 工学博士 新谷 洋二(にいたに ようじ)氏の「これからの松阪城跡に期待するもの」というテーマの講演があった。新谷教授は東京生まれであるが、たしか松阪市の飯南地区にゆかりがあるという、自己紹介をされたと記憶している。
 日本100名城には三重県から松坂城跡と伊賀上野城跡が選定されたが、松坂城跡が選定された理由として、①野面積みの石垣が素晴らしい、②縄張り(設計)が素晴らしい、③御城番屋敷が素晴らしい、④蒲生氏郷が造った城であること、⑤余計な建物などがないこと、を述べられたと記憶している。
 この中で特に⑤の「余計な建物などないこと」は大事なところである。

✦明治以降の城跡の運命
 廃藩置県後の城跡は無用の長物として、多かれ少なかれ数奇な運命をたどってきた。多くの城跡の堀は埋められ、建物は壊され、城跡内には軍の施設が置かれ、官公庁の施設や学校、病院などが建設された。また天守が民間に払い下げられ、壊される運命にもあった。
 あの国宝であり、世界遺産でもある天下の名城・姫路城でさえ、明治維新後天守閣は民間に払い下げられた。23円50銭、今のお金に換算して約10万円という信じられないほど安い落札で払い下げられた。その後、本来取り壊される運命にあった姫路城は奇跡的に残り、現在美しい姿を見せている。 

 市議会議員の時に委員会の視察で訪れた金沢城跡の中にも、かつて金沢大学のキャンバスがあった。金沢大学は平成7年(1995)に別な場所に移転し、今は元の城跡の姿に戻っている。そして金沢城跡は平成18年(2006)の日本100名城に認定され、平成20年には国の史跡に指定された。もし今も城跡内に金沢大学があったら、加賀百万石の前田家の居城が日本100名城や国史跡に選ばれなかったかも知れない。別の時に訪れた福井市の福井城跡も立派な堀と石垣がある城跡であるが、城跡の中央部に鉄筋コンクリート造りの福井県庁の建物が何棟もそびえ立つ異様な光景を目にした。

 我が松坂城跡もかつては本丸跡に、市の水道の配水池が置かれていた。この配水池は城の建物跡地に造られたが、工事では貴重な礎石が調査もされず撤去されてしまった。その時代、その時代の城跡に対する位置づけや考え方が違ってきているので、仕方がないところもあるが、今思えば大変残念なところである。
 ずっと以前から松坂城跡に天守閣を建てようとする運動が起こっては立ち消えになっている。松坂城跡に天守閣ができれば観光的の目玉となり素晴らしいことである。私も建物や天守閣のあるいくつかの城跡を見ているが、なんともうらやましい限りである。しかし松坂城跡に天守閣が建てられないのはお金の問題もあるが、なにより当時の図面などの記録が何もない。松坂城の天守は建設されたあと約70年後に大風で倒壊して、その後再建されていない。どこかの倉の中から松坂城の絵図など出てくれば別であるが、現時点でいい加減な天守を造れば、⑤の「余計な建物など」となる。今の松坂城跡は石垣だけでも立派な城跡である。

✦石垣の変状
 土木工学などのない時代の城造りは、経験を頼りに造られた。また築城されてから長い年月が経っていることもあり、どこの城または城跡でも石垣に変形が生じてくるのはやむを得ない。
 城及び城跡における石垣の変状には、局所的な積み石の割れ、石の風化、石の抜け落ちなどがあげられ、降雨や地震、樹木の根などが起因する。また構造的な変形としてははらみだし、前倒れ、沈下などがあり、原因として地山の強度不足や浸透水による影響、基礎地盤の脆弱化があげられる。

 このため、どこの城でも、また城跡となった後でも改修工事がなされている場合が多く、松坂城及び松坂城跡でも改修工事が行われている。
 平成28年11月5日に松阪市文化財センターで行われた、三重県教育委員会の竹田憲治氏による「松坂城跡解体新書」という講演では、松坂城跡の石垣の全ての面(212面)に番号をつけて調査した結果が報告された。
 これによると松坂城(跡)の石垣は①1期(天正末~文禄)、②2期(慶長前半)、③3期(慶長後半)、④4期(江戸前期後半~中期)、⑤5期(江戸後期~明治)、⑥6期(明治~大正)、⑦7期(昭和~平成)の7期に分類される。この時代別の石垣の工事は、縄張り(設計)の変更と、これまでの積まれていた石垣の改修工事によるものがあると思われる。全ての石垣が蒲生氏郷の時代に造られたものであると思われる場合が多いが、絶えず動いていることが分かる。

✦現代における石垣の改修
 平成29年9月18日、松阪市本町の松阪市産業振興センターで、「みんなで学ぼう石垣修理」をテーマに「平成29年度 第1回松阪歴史文化塾事業 松坂城跡シンポジウム」が開催された。この催しは松阪市が主催して行われたもので、国史跡でもあり、都市公園でもある松坂城跡の整備を文化的価値の保全と、利用する市民や観光客の安全性の確保という両面からどのように取り組んでいけばよいかを探っていくものであった。
 
 基調講演では(協)関西地盤環境研究センター顧問で関西大学名誉教授の西形達明氏が『城郭石垣を災害から護り伝えるために』というテーマで、土木工学の立場から石垣の変形のメカニズムについて話をされた。また奈良大学教授の千田嘉博氏をコーディネーターとするパネルディスカッションも行われた。

 城跡の石垣の保全改修については、現代の土木技術や材料を用いれば簡単なことであるが、文化財としての価値を保ちつつ、これまでのやり方で保全改修し、安全を確保するのが難しい。外から見えない内面の栗石の幅なども元のままに直すべきであると言われ、貴重な史跡をいかにして元のまま後世に伝えるか、全国の城跡の管理者の最大のテーマでもある。

✦樹木による石垣への影響
 城跡の石垣の変形のメカニズムは、いろいろな要素が重なり合い難しいが、原因がはっきり見えるのが、樹木による石垣への影響である。私も以前に議会の一般質問でこの問題を取り上げたことがあるが、石垣近くに植えられた樹木が石垣を押しているところが数十箇所あった。
 松阪市では整備基本計画にそって松坂城跡の石垣に影響を与えている樹木や、景観を害している樹木の伐採を始めており、その状況を説明する「松阪城跡史跡整備現地説明会」が平成29年3月19日に現地であった。松坂城跡において石垣の保全管理のため本格的に樹木の伐採が行われるのは、今回が初めてではないかと思われる。

 私が主宰する「松阪史跡めぐり」で玉城町の田丸城跡を訪れたとき、石垣のすぐ間近に新しい植樹がしてあった。今は細くて何ともないが、何十年後、何百年後には必ず石垣に影響を及ぼすであろうと思われ、心配している。

✦まとめ
 天正16年(1588)に松坂城を築城した蒲生氏郷は、わずか2年後の天正18年(1590)に秀吉により会津に移封された。奥州の伊達政宗を抑えるための配置であった。しかし氏郷にしてみれば松坂に新しい城を築き、町並みを整備し、さあこれからという時に会津への移封はさぞかし無念であったと思われる。領地の石高が武将の格を表す時代、松坂の12石から会津の42万石(後の検地・加増により91万石)は大出世であったが、会津は京から遠く離れていることもあり、松坂への思いを募っていたという。松ヶ島城に入ってからわずか6年間松坂に居ただけであったが、現代にまで通じる町づくりをしていった功績は大きい。

 これだけ立派な歴史と城郭をもった松坂城跡は松阪市の宝であり、国の宝でもある。この貴重な遺産の文化的価値を保ちつつ、松阪のまちの歴史・文化も併せて何十年後、何百年後の後世に残して行くのが、現在を生きる私たちに課せられた使命である。
コメント (2)
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