川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

深野棚田まつり開催される

2012-11-10 20:17:30 | 日記
 日本棚田百選にも選ばれた、松阪市飯南町深野の「深野だんだん田」で11月10日、「深野棚田まつり」が開催されました。この祭りは、柿野住民協議会深野支部(杉山憲一支部長 会員約400名)と深野棚田保存会(栃木喜明会長 17名)が主催して今年初めて行われたもので、訪れた市民は、棚田に揺れる2000個の幻想的な灯りを堪能しました。
 
 栃木会長の話では、この祭りは、今年の4月頃から計画を立て、準備は8月26日から始めたとうことです。ローソクを立てる燭台は竹を30㎝位の長さに切り、灯りが見えるように横側に穴を開けるのが大変だったと言うことです。
 祭りは午後1時から始まりましたが、来場者には地元夏明婦人会がつくったお餅や、神路山婦人会がつくった牛汁が振る舞われました。また仮設ステージでは飯南町民バンド「ウインズ」や「神夢楽」の演奏がありました。

 午後4時に2000本のローソクに点灯されました。この日会場の棚田には多くのカメラマンが訪れ、早くから撮影スポットにカメラを据えて暗くなるの待ちました。日常生活の中では今の季節、日の暮れるのは早いのですが、今日の来場者はなかなか日が暮れないのに、やきもきしながら待っていました。
 やがて夕闇が迫ってくると、灯りが浮き出てきて、辺りが漆黒の闇に包まれるころ、棚田の畦沿いに設置された灯りが、畦の形を浮き上がらせました。ローソクの炎が竹筒の横穴からチカチカと風に揺れ、何とも言えない素敵な光景でした。
 準備準備に携わっていただいた柿野住民協議会を始めとする地元の皆さん、協賛していただいた皆さん、飯南振興局の皆さんなど、多くの皆様方いいものを見せていただきありがとうございました。

         
                
 栃木会長の話では、この祭りの準備が大変だったので、来年以降も続けていくかは考えていないが、何らかの形の催しはしたいということです。

 会場で松阪市文化財保護指導委員の野呂修三さん編集の「日本棚田百選 深野棚田の考察」という文書をいただきましたので、全文紹介します。 


                  日本棚田百選  深野棚田の考察

 稲作文化のなかった縄文期は別として、現在の深野の里は何時ごろより集落化したのかを調べるとき、資料があまりにも少なく疑問が多くありますが、古代の大和と伊勢を結ぶ線上に位置する地点だけに、櫛田川沿いでは比較的に古い時期より水田も開かれていたと思われます。
 江戸時代の文献に、東沖と深世古にまたがって宮城があり、氏神としてお祀りされてきた「東の宮午頭天王八王子社」の社伝に「村の草分けは700年ほど前」とされており、当時より200年を加えると約900年遡ることができ、平清盛の時代頃にはすでに集落ができていたと推測できます。
 また神路山地区の橋ヶ谷には木地屋廣という所があって、数百年以前より、数軒の生地師がすんでいたという伝承も残っています。
 その後永正7(1510)年 伊勢国司6代目北畠材親(きちか)が疱瘡(天然痘)を患って、伊勢国司職を家督の7代晴具に譲り、多くの家臣を伴い隣村の大石村字御所に隠遁しました。いわゆる大石御所と呼ばれる所です。
この際元国司の北畠材親に随行してきた家臣たちは、大石御所周辺の原野を開拓して軍事拠点の城郭や狼煙場・馬場等や、狩猟のための狩場を造ったり、家臣団の食料生産の場として荒地を開墾して農地を拡大してゆきました。(現在も地名とつて御所、馬場山、狩場、城山、矢下が残り使われています。)
深野地区内にある宇長野は、家臣の長野左京の居城長野城があったところで、この辺りを拠点に傾斜地の荒地を開墾して、段々に田畑を作っていったのでしょう。棚田の造成はこのころより本格的に始まったと思われます。この集落は開墾者の名に因み今も「長野」と呼ばれています。
 慶長年間(1596~1615)長野城の奥詰として居住していた郷土の野呂俊光(改名前松本市太夫)は、この地が紙すきに適していることを悟り、美濃の国に赴き紙漉き職人2名を連れ帰り当地で冬場農閑期の副業として、里人達に紙を漉くことを奨励しました。
 時は移り江戸時代、元禄の世となり経済も発展し庶民のくらしも豊かになり、紙の需要も次第に増大してゆきました。ところが紙の生産には立地条件があり、今と違ってどこででも紙を生産するということができませんでした。
 当時紙生産の最適地であった深野は、そのために近在はもとより、遠くは松阪・南島・志摩方面からも、深野へ行けば紙を漉く仕事があるというので、江戸時代中頃より明治初期まで、荒地原野であった夏明地区に人家が集中して、冬場の紙が透ける時期は紙を漉き、紙すきができない夏場に食料生産の場として棚田を造成してゆきました。
 この地方の方言で、原野や荒地を切り開くことを「地明け(ぢあけ)」と呼んでいます。私はこの夏場に荒れ地を地明けして田んぼを造っていったために、地名を「夏明」としたのではないかと推測しています。
 したがって平成11年に日本の棚田百選に認定された「深野のだんだん田」夏明地区の棚田は、元禄時代頃~明治時代(約320年~130年位前)の間に造成された比較的に新しいもので、中世期の開田された長野地区などとは150年以上も後に造られたものです。
 又この夏明地区の狐岩と呼ばれている所には、深野上郷地区の旦那寺として浄土宗宝泉寺というお寺がありますが、当時江戸幕府はキリスト教を取り締まるための宗門改により、夏明地区の入植者は全戸他所4ヶ寺の門徒宗の信者で、宝泉寺の檀信徒ではありませんでした。
 しかし現在の様に交通手段が発達していなかった時代の事、普段の弔いは地区内の宝泉寺に以来をしていたために記録が残されていて、江戸中期より明治中期までの間は増加傾向にあり、これは幕府の新田開発奨励も相俟って、夏明地区の戸数増加と棚田の増加が立証されます。当時深野の戸数は250戸、内本郷100戸上郷150戸となっていて上郷集落の方が多くなっていました。
 明治末期から和紙需要の減少に伴い、夏明地区の入植者も次第に減少していきました。
                             文責 松阪市文化財保護指導委員 野呂修三     
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