「はなふる」のアクセント樹・・・
2020年11月、恵庭に花の拠点「はなふる」が誕生。2022年6月25日~7月24日には此処を拠点に「第39回全国都市緑化北海道フェア(ガーデンフェスタ北海道2022)」が開催。花のまち恵庭の花の拠点に相応しく、人々が集う場所となった。
「はなふる」のガーデンエリア設計監修は高野ランドスケーププランニング株式会社の代表取締役村田周一氏。他に、北海道を代表する11名のガーデナーが趣向を凝らした7庭園を設計している。
「はなふる」を訪れて最初に眼に入るのは、ガーデンエリア中央の広場であろうか。広い緑の芝生と円形の回遊路。個々の庭園がこの空間を取り囲むようにある。各庭園の花々にも癒されるが、訪れてホッとするのはこの広場ではあるまいか。
この広場にある一本の「ハルニレ」。他の樹々が新たに栽植されたものだが、此の大樹は元々あった場所に残されたものだろう。この樹を此処に置いた設計者の意図は分からないが、ひと際目立つこの大樹は「はなふる」のシンボルツリーに相応しい。勝手ながら「恵庭の樹」リストに登録することにしよう。
ところで、旧保健センターの駐車場脇にあった「恵庭三四会20周年記念植樹(平成8年10月16日建立)」はどうなったのだろう? と、気になって探したら、シンボルツリーの対面(北側)に移植されていた。
◆「はなふる」のシンボルツリー
◆恵庭三四会20周年記念樹
(左は移植前、右は移植後)
◆高野文彰君を悼む
設計監修に携わった「高野ランドスケーププランニング」の名前を聞いて、朋友高野文彰君を思い出した。彼は大学の同期生である。
同窓会名簿によれば、農学部農学科昭和41年3月卒業生は14名。教養課程を経て学部移行したのは定員割れの18名(5講座、定員25名、留年する者もいたので卒業が14名)だったので谷間の学年と言われた。講義以外の活動に熱心な輩が多く、あまり真面目な学年ではなかった。高野君は園芸第二講座で造園学専攻だったが、どちらかと言えば馬術部専科、晩年まで馬と共にあった。仲間内ではダンデイー高野で通っていた。卒業後、日本技術開発を経てジョージア大学大学院修了、USAでの設計事務所勤務体験を経て帰国したと言う。
小生は植物育種学を専攻、卒業後は農業試験場で泥臭く働いていたので交友はなかったが、時を経て平成26年(2014)3月恵庭での講演会で再開した。十勝で同期会でもやるかと話していたが叶わず、昨年の新聞で逝去したことを知った。高野文彰(高野ランドスケーププランニング社創業者・取締役会長)、令和3年(2021)8月31日永眠。享年78歳。そんな年齢なんだと我が身を振り返った。
同社HPによれば、高野ランドスケーププランニングは1975年に東京でスタート、バブル期の1990 年に会社を北海道に移転。「デザインと創造性」「参加型公園づくり」「森とエコロジー」の3つを得意分野とし、それらの3つがお互いに刺激しあい、ダイナミックにプロジェクトを展開。マレーシア、フランス、台湾など海外でも活躍し、近年は中東、サモアなどでも展開している、とある。受賞に輝くプロジェクトは数多く、「十勝千年の森(清水町)」「あさひかわ北彩都ガーデン(旭川市)」「大雪森のガーデン(上川町)」「ナチュの森(白老町)等は誰もが知っている。
高野君は同社取締役会長としてIFLA(国際造園家連盟)環太平洋アジア地区会長、IFLA副会長職にも就任。また、高野ランドスケーププランニングでの45年間の全軌跡を、高野文彰著「ランドスケープの夢」として刊行したと聞く。
君が描いた千年の夢は何だったのか、著書を手にして君を偲びたいと思った。
ともあれ、「はなふる」の象徴樹ハルニレは、君の思いを恵庭の子供たちに伝え続けることだろう。今日も散歩の途中「はなふる」に立ち寄り、時を重ねるハルニレの姿に君を重ねた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます