恵庭散歩-「寺院」の章
仏教用語に「弘誓」と言う言葉があり,「ぐぜい」と読む(難解な読みだ)。小学館デジタル大辞泉をみると,「衆生を救おうとして立てた菩薩の誓願,四弘誓願のこと」とある。つまり,修行者である菩薩が,自ら悟りを開き,同じく生きとし生けるものを救済しようと決意し,誓いを立てることだと言う。
そして,「四弘誓願(しぐぜいがん)」とは菩薩が修行の初めに起こす四つの願いを言う。即ち,以下の4誓願である。
1.衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど,地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願)。
2.煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん,煩悩は無量だが,すべて断つという誓願),禅宗では煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)とする。
3.法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち,法門は無尽だが,すべての教えを学ぼうとする誓願),禅宗では法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)とする。
4.仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう,仏の道は無上だが,かならず成仏するという誓願)。これらの言葉は,僧侶の読経を聞いて耳に残っている方も多いだろう。
さて今回は,「弘誓」を山号に冠した寺院を訪ねよう。
3.弘誓山本誓寺(ぐぜいざんほんせいじ),浄土真宗本願寺派
所在地は恵庭市南島松。島松駅から駅前通りを直進し,柏木川を渡ると左に消防署,右に島松体育館があり,恵庭北高に突き当たる。信号を左折し,老人ホームと保育園を過ぎると,左手に島松幼稚園及び本誓寺が見えて来る。この位置は,島松小学校の向かいと言った方が分かりやすいかもしれない。西五線道路が十九号道路と交差するところで,JR島松駅の東方向1.5km,徒歩で18分の距離にある。
島松地区には,明治24年(1891)福井県から来道した原田三十良が島松地区に居を構え,前後して同郷の上松藤兵衛,花野友次郎,宗近與三吉が入植,広島県からも鋼道市助等が入植し(漁川沿岸に比べ不便であったことから入植はやや遅れた),その後呼び寄せで入植者が増えて行った。入植者の主体は富山・福井からだった。北陸地方や広島地方には門徒宗が多かったこともあり,原田三十良らは真宗教会本部北海道出張所に説教所開設を要望した。それに応えて明治27年(1894)近江の国(滋賀県河瀬村)浄国寺住職野口道性師に島松での寺院開設を促したのが本誓寺の始まりとされる。原田三十良は初代総代,息子の専松も寺院運営に多大な貢献をしている。寺院の歴史,歴代住職や坊守,檀徒の方々の物語は,平成10年刊行の本誓寺「百年間のお寺と檀家のお付き合い」に詳しい。
山門を入ると,左手に鐘楼がある(写真は2015.2.20撮影,以下同じ)。当初の梵鐘は,小樽の浅野亀次郎から寄進されたものであったが,第二次世界大戦が激しさを増した昭和19年に供出された歴史がある。現存するのは戦後(昭和24年)に鋳造された二代目梵鐘で,鋳造師黄地佐平(滋賀県)の作である。鐘の音に,世界平和を祈念する響きが籠められたとしても不思議でない。
また,開基住職野口道性の墓碑(二世住職野口義男の建立)があるが,同碑の右側には「釈敬立俗名石田三次郎」の名前が刻まれている。過去帳によれば「使役人」とのことだが,開基住職と共に辛苦を共にした人物だったのだろう。同じ碑に名前を刻んで祀らんとする気持ちがうれしい。近くには,親鸞聖人行脚像が建っている。
本堂の左手には無量寿堂(納骨堂)がある。法隆寺の夢殿を象った八角の御堂が特徴的で,設計者は札幌グランドホテルや恵庭農協の設計にも携わった橋本理助だという。
さらに,本堂及び会堂等が大改修を終えて落成法要が行われたのが平成6年,本堂と並ぶ会堂「法味楽」の姿は整然として美しい。なお,「法味」とは仏法の深い味わいを,食物の美味にたとえて言う語で,読経などの儀式・法要を意味する。法座に集う衆生が有難い言葉を聞くのに合った名前である。
なお,主な年中行事は,報恩講,毎月23日(12~4月は9日)に開催する法座などである。隣接地では,島松幼稚園幼児らの笑い声が絶えることがない。
写真撮影の御礼を申し上げたら,坊守さんが「お茶でも飲んで行きなされ」と親切な声を掛けて下さった。広い駐車場には,園児を送迎するバスが駐車していた。
◆弘誓山本誓寺の概要
所在地:恵庭市南島松
本寺:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)
本尊:阿弥陀如来
開創・開山:明治27年
開基:野口道性
歴代住職:野口道性(初代),野口義男(二代),野口幸男(三代),野口宗英(四代)
沿革(歴史)
明治27年(1894)11月:滋賀県河瀬村浄国寺前住職野口道性師が,真宗教会本部北海道出張所の命を受けて開教に着手。
明治29年(1896):島松村西五線南二十号(現在地)に説教所を置き普及に努める(恵庭市史による。本誓寺HPでは明治28年)。
明治30年(1897):原田専松から敷地の寄進を受け,本堂を新築して説教所とする。
明治37年(1904):本誓寺の寺号公称の認可を受け(36年10月寺創出を出願していた),庫裏を建築。同年11月には原田専松から境内地の寄進を受ける。
明治39年(1906):本堂,庫裏,向拝など建設。
明治45年(1912):本堂落慶法要。
昭和9年(1934):小樽浅野亀次郎から梵鐘の寄付を受け,鐘楼堂を建設。
昭和18年(1943):戦争激化のため梵鐘を供出。
昭和21年(1946):島松小学校御真影奉置所を譲り受け納骨堂とする。
昭和24年(1949):梵鐘を新たに鋳造する(滋賀県の鋳造師黄地佐平作)。
昭和28年(1953)11月:書院改築落成。
昭和37年(1962):島松保育園開園。
昭和38年(1963)9月:本堂及び庫裏等の改築。
昭和44年(1969)9月:親鸞聖人生誕800年を記念し,納骨殿無量寿堂(法隆寺の夢殿を象った八角の御堂)を建立。設計橋本理助。
昭和59年(1984):島松幼稚園認可を得る。同62年に園舎落成。
平成4年(1992):本堂等の大改修工事起工。
平成6年(1994):同上落成法要。本誓寺開教100周年慶讃法要を勤修。
参照:恵庭市史,浄土真宗本願寺派札幌組HP,本誓寺「百年間のお寺と檀家のお付き合い」平成10年
◆浄土真宗本願寺派
本願寺派は浄土真宗の宗派の一つである。親鸞聖人の墓所である「大谷廟堂」を発祥とする本願寺(通称西本願寺)を本山とし,末寺数が全国で10,500寺院,信者数695万人と言われる大きな教団を構成している。浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派で構成)には,もう一つの大きな宗派である真宗大谷派(東本願寺,本山は「真宗本廟(東本願寺)」がある。信徒は,本願寺派を「お西さん」,大谷派を「お東さん」と親しみを込めて呼んでいる。
宗祖(開山):親鸞(1173-1263)
本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。
本山:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)。
経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。
教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来る。専修念仏が基本。
親鸞の教えを教義とするので,浄土真宗本願寺派と真宗大谷派との間に基本的作法の差はない(バリエーションは存在する)。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず(参観記念スタンプで対応する寺院はある),戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香(1回,大谷派は2回)は額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。
組織は大きく,布教活動も海外にまで及んでいる。学校法人龍谷学園から幼稚園教育までの実績も,私たちの知るところである。
恵庭市内にある浄土真言宗本願寺派寺院には,本誓寺の他に敬念寺(恵庭市本町)がある。
注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。
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