ヤブツバキ(Camellia japonica),ツバキ科ツバキ属,日本原産の常緑樹である。伊豆大島,利島が有名であるが,奥伊豆の山々にも多く見られる。
樹高は通常5-6mだが最大20mに達する。赤い花,表面につやがある濃緑色の厚い葉,灰白色の滑らかな木肌が美しく,古くから絵に描かれ詩歌に詠まれるなど愛された樹木である。近世になると茶道のお茶花として(一輪挿し)珍重された。
また,江戸時代の大名や公家が園芸樹として愛好したことから多くの園芸種が作られ,西洋に渡ってからも改良が進み,花色・斑入り・絞り・一重・八重・大輪から小輪まで多様な鑑賞品種が多数開発された。その結果,ツバキのイメージは豪華になったが,本来の美しさは侘びを秘めたヤブツバキにあるのではなかろうか。
ヤブツバキは花弁が個々に散るのではなく,基部でつながって丸ごと落ちる。ポトリと言うよりボタッとかなり重い音だ。思わず何事かと,振り返らせるような湿った響きである。
その音に,何故か「・・・蛙飛び込む水の音」を連想していたら,裏木戸から出て来た祖母が言った。
「首が落ちる様子を連想させるので忌み嫌う。お見舞いには持って行かぬ」
「へー,そんなものか?・・・」
と思いながらも,小路に敷き詰められたツバキの絨毯が木漏れ日を浴びた美しくしさに見とれた。その光景は,忌み嫌うと言う表現からかけ離れていた。
振り返ると,牛舎尿溜めに落ちた一輪の花弁が青く変色している。子供の眼には,これこそ不思議な現象で興味をそそられた。
「アンモニアの所為か?」
と,落ちていたヤブツバキの花に小便を掛けてみたが,すぐには変色しなかった。
花が落ちて,青い実が赤く色づき,中から黒褐色の実がこぼれるころ,祖母はその実を拾い集めた。「何にするのだ?」
「油を搾る,髪に付ける椿油だ」
祖母は天日で乾燥させた子実を油屋(製油所)に持参し,搾油してもらうと言う。
油屋は山を越えた隣村の河津見高にあった。今井浜からしばらく坂を上った所の油屋は,農家の納屋を改造した建物に搾油機を備えていた。圧搾して油分を分離し,濾過精製する機械だったのだろう。作動中の機械から流れ落ちる油が,窓からの光を浴びて黄金色に輝いていたことを思い出す。帰りに,河津浜で磯遊びして貝を漁った記憶もリンクする。
当時は,第二次世界大戦が終わったばかりの頃で,何もかも自給自足の生活であった。油と言えば,菜種油に椿油。それぞれ地場で賄っていた。しかし,その後の経済成長は田舎の油屋(椿油製造販売)という文化を消し去った。
椿油は,オレイン酸やリノール酸など不飽和脂肪酸を多く含み(75%),食用,化粧品(髪油・スキンオイル),薬用,工業用などに用いられる。古くから,日本刀の磨き油,木刀,碁盤,櫛など木製品の艶出しにも使われてきた。和製オリーブオイルとの呼び方もあるようだが,今や純粋椿油の生産量は少なく貴重品に近い。
伊豆の里山に油屋(椿油製造販売)文化が蘇る日はあるのだろうか?