竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二九六 今週のみそひと歌を振り返る その一一六

2018年12月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二九六 今週のみそひと歌を振り返る その一一六

 今週は巻十二の「寄物陳思」に部立される歌々を鑑賞していますが、今週は心を惹かれる歌があまりなく苦しんでいます。惰性ではありますが、その内でやや気になる歌に再度、遊びます。
 最初は万葉集での言葉の再確認をする歌二首です。ご存知のように万葉集時代、川の流れの名称は現代とは違います。現代で云う「滝」は万葉集では「垂水」ですし、万葉集で云う「激、瀧、瀧」は現代で云う「激流」です。これがお約束ですので、言葉の約束を忘れてしまうと、歌の鑑賞に相違が出る可能性があります。

集歌3015 如神 所聞瀧之 白浪乃 面知君之 不所見比日
訓読 神し如(ごと)そ聞こゆ瀧(たぎ)し白波の面(おも)知(し)る君しそ見ぬこのころ
私訳 鳴る神のように確かに轟聞こえる激流の白波、その言葉の響きのようにお顔だけは見知っている貴方ですがまったくお見えにならない近頃です。

集歌3025 石走 垂水之水能 早敷八師 君尓戀良久 吾情柄
訓読 石(いは)走(はし)る垂水(たるみ)し水の愛(は)しきやし君に恋ふらく吾(あ)が心から
私訳 岩をも流れ落ちる激しい滝の水が馳(は)しり下る。その言葉のひびきのような、非常に愛(はし)い(=いとおしい)貴女に恋い焦がれる。私の心の底から。

 この二首に他に何かが有るかと云うと、特別にはありません。
 次に集歌3021の歌に遊びます。ただ、この歌に何かが有るかと云うと特別にはありません。取り上げた理由は、単に初句「絶沼」にあります。

集歌3021 絶沼之 下従者将戀 市白久 人之可知 歎為米也母
訓読 隠沼(こもりぬ)し下ゆは恋ひむいちしろく人し知るべく嘆(なげ)きせめやも
私訳 水のはけ口が無い隠沼の奥底、そのような密やかに心の奥底から恋い焦がれましょう。はっきりとあの人が気付くような恋の嘆きはいたしません。

 万葉集では隠沼などとも表記し、流末を持たない池、沼、泉を示し、地表に水流を見せないが地中には確かに水脈があり水が流れていることを表します。そこから表面には恋心を示さないが、脈々と恋心を抱いている譬喩とします。ただし、標準的な解説では水面に水草などが生い茂り岸や全景が良く見えない、存在に気づき難い沼や池をイメージします。
 ところが、奈良盆地は、南は宇陀山地、北は平城山地、東は大和高原、西は金剛山地に四方を囲まれ、山裾に扇状地地形を示します。こうした地形の場合、扇状地先端に近い場所のくぼ地には下流を持たない泉などが生じます。その泉の規模や土手の周囲の状況から、泉、沼、池などと人々は呼んだのではないでしょうか。
 住む地域の地形により歌で詠われる地形表現の解釈は変わるでしょうし、その異なる解釈から歌の感情は変わって来るでしょう。当然、扇状地の上流部の特徴である尻無川ではありませんが、絶沼や隠沼を尻無池と想像しなければ集歌3021の歌の二句目の解釈は難しくなるでしょう。和歌言葉としての「隠沼」をその和歌を無視すれば「草などに覆われてよく見えない沼」など云う適当・無責任な解説はできますが、まともに和歌を和歌として鑑賞すると難しいでしょう。
ただ、言葉は時代とともに進化・変化します。新聞・雑誌などが時に昭和時代の辞典を参照して平成時代の言葉を使う現代人に対して言葉を誤用していると「為にする記事」で遊びます。
 調べてみますと、「草などに覆われてよく見えない沼」という解説は次の新古今和歌集の歌を引用して解説するようです。しかしながら、この歌番号1001の歌もまた万葉集での表には見せないが脈々と水を流す風情を示すのではないでしょうか。なお、可能性として、この歌の「のもりぬ」には「籠りぬ」、「隠沼」などの掛詞があるでしょうから、単純な意訳のままでは済まないでしょう。

新古今和歌集 恋一 歌番号1001
原歌 人づてに知らせてしがなこもりぬの身ごもりにのみ恋ひやわたらむ
意訳 人づてに私の恋心をあの人に知らせたいなあ。隠れ沼が人に気付かれないように心の内にこのまま恋し続けるのでしょうか。

 文字数稼ぎで、もがきましたが、何も特別にはありませんでした。
 スランプです。
コメント
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