竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二九四 今週のみそひと歌を振り返る その一一四

2018年11月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二九四 今週のみそひと歌を振り返る その一一四

 今週は巻十二の「正述心緒」から「寄物陳思」に部立される歌々を鑑賞しています。その中でも「寄物陳思」の部では衣の色について詠う歌が目立ちます。そこで今週は衣の色について遊びたいと思います。
 ご存知のように現代に伝わる正倉院御物からしますと、万葉集の歌が人々の間で盛大に詠われた時代、前期平城京の時代には高度な織機技術、多色の染色技術、多彩な化粧品の存在が存在したことは確認されており、化学繊維は別として現代人が求め、身に纏う多彩な衣装や化粧品と同等なものを当時の貴族階級は楽しんでいました。それを前提として歌々を楽しんでみてください。
 正倉院御物で使われる数多くの天然顔料から推定して化粧品としましては奈良時代と大正時代はほぼ同じものであり、白色系化粧品である白粉(鉛白)では反って奈良時代の方がそれは貴族個々人の特注扱いですから青白系から純白系までと色のバリエーションは広かった可能性があります。つまり、衣装の彩りだけでなくそれに応じた化粧を施していた可能性があります。赤系として水銀由来の朱や鉛由来の丹、また、紅花の紅は有名なところです。正倉院御物より古く記録として天平八年度の薩摩国正税帳に筆の材料に鹿皮を薩摩から大宰府に送ったという記事がありますから、奈良時代の早い時期以前に筆は使われています。およそ、化粧筆はありました。時代、天然顔料からの五彩色は入手可能です。
参考として、化粧法の研究者は万葉集を参照して、眉引と云う眉毛処理方法に加え、薬狩りや田庄での稲刈り風景に行幸への随伴などを下に藤原京から前期奈良時代の貴族階級の女性の活発な屋外活動を考慮して、明るい光の下での「ふくよかさ」を強調した化粧方法であっただろうとしますし、日本書紀 雄略天皇紀の吉備上道臣田狭の話題に鉛白のような白化粧をしなくても私の妻は美しいと記述するところから、奈良時代の人々の化粧感覚は薄化粧のベースに眉引き・頬の紅差し、口紅引きではなかったとします。そして、これは平安時代の照度の低い屋内生活に対する厚く白粉を施す化粧方法とは全く違っていたと推定しています。
 少し時代は後になりますが、唐末の詩人蘇軾の詩「飮湖上初晴後雨」に示すように唐代の化粧には薄化粧と厚化粧との二つの方法がありましたから、隋唐の代表的な化粧方法である蛾眉や三日月眉を模倣した藤原京から前期奈良時代の若い女性の化粧方法はその若く健康的な肌を太陽光の下で見せるような薄化粧系であったと思われます。まず、早春に日の光の許、若々しい柳の枝元に立つ十五歳の娘には厚塗りの白化粧は似合わないと思います。漢詩の風流感覚は「年初十五最風流、新賜云鬟使上頭」です。

唐の蘇軾の詩「飮湖上初晴後雨」
飮湖上初晴後雨 湖上に飲す初め晴後に雨
水光瀲艶晴方好 水光瀲艶として晴れてまさに好く
山色空濛雨亦奇 山色空濛として雨もまた奇なり
欲把西湖比西子 西湖を把て西子(西施)に比せんと欲すれば
淡粧濃抹総相宜 淡粧濃抹すべて相よろし

 さて、前置きの与太話を置いて、今週の歌の遊びに戻ります。紹介する歌には「橡(つるはみ)」、「紅薄染衣淺」、「桃花褐淺」、「紫帶」とあります。

集歌2965 橡之 袷衣 裏尓為者 吾将強八方 君之不来座
訓読 橡(つるはみ)し袷(あはせ)衣(ころも)し裏にせば吾(われ)強(し)ひめやも君し来(き)まさぬ
私訳 普段着の橡色の袷の衣を色が褪せたと裏返しにするように、古い恋仲の私に手のひら返しをするのなら、私が貴方に私の許に来るように強く求めるでしょうか。だからか、貴方は私の許にいらっしゃらない。

集歌2966 紅 薄染衣 淺尓 相見之人尓 戀比日可聞
訓読 紅(くれなゐ)し薄(うす)染(そ)め衣(ころも)浅らかに相見し人に恋ふるころかも
私訳 紅を薄く染めた衣のように、わずかに体を許したあの人に恋い焦がれる今日この頃です。

集歌2970 桃花褐 淺等乃衣 淺尓 念而妹尓 将相物香裳
訓読 桃花(もも)褐(かち)し浅らの衣(ころも)浅らかに思ひに妹に逢はむものかも
私訳 安っぽく桃色に浅く染めた衣、その色薄い衣のように、安っぽく軽い気持ちで愛しい貴女に逢う(=抱く)ことがあるでしょうか。

集歌2974 紫 帶之結毛 解毛不見 本名也妹尓 戀度南
訓読 紫し帯し結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ
私訳 紫に染めた私の帯の結びも解きもみず(=解く機会もなく)。その言葉のひびきではないが、時も見ず(=状況を見極めず)、このまま成就の確証もなく愛しい貴女に恋し続けるのでしょう。

 「橡」、「紅薄染衣淺」、「桃花褐淺」ですと、朝廷に勤める官人やその娘子が身に纏っても律令制度的には問題はないでしょう。「橡」はドングリの実から染めた鈍くうすい黄茶色系の彩で、濃くなると黒橡と称され泥で染めたような黒色に分類されます。まず、古くからの庶民の彩です。
 次に「紅薄染衣淺」は、紅で薄く染めて、それも浅いと追記表記します。色合いは、ややくすんだ紅色ですが、それが浅いとしますと薄い桃の花色に近いものがあります。官服の色目で浄御原宮令の浅き葡萄に似たものとしますと、最下級の官人のものとなります。
 そして、「桃花褐淺」は桃の花のような淡い赤色ですが、赤みの程度が「紅薄染衣淺」の方法がやや濃いと思われます。この色合いはHP「伊藤平商店『日本の伝統色』」で確認願います。

https://www.itohei.com/color-sample/japanese-tradition-color-new.html

 なお、この桃花褐染めは紅花の紅玉から染めた説と、梅の木の枝などから染めた説があります。梅の木から染めたものはインターネット検索からその色目を確認できます。ただ、それらは浅染めですから古代色では無い可能性があります。なお、桃花褐染めは色目として朱華とは全くに違うものですので、これも禁色ではありません。庶民の彩です。
問題は「紫帶」です。紫は紫草の根から染めたものですが、この彩は王族か、臣民では三位以上の高官だけに許された色目です。歌の主人公は王族だったのでしょうか。それとも、ここでの「紫帶」は「衣」ではありませんし歌の景色は共寝する床ですから、下着をまとめる紐のような意味合いでしょうか。つまり、人目につかないパンツの色が紫であっても、おとがめはないでしょうから、そのような状況でしょうか。
 ご承知のように、当時の男も女もファッションは大好きで、色々と工夫を凝らして個を主張していたようです。共寝をした後、男は女と下着を交換して女の下着を着て帰っていったようですから、男女ともに気合を入れて下着や下紐などは用意したと思います。すると、普段では絶対に手に入らない「紫染の下紐、見たい?欲しい?」という意味合いがあるのでしょうか。女に「男に身を許すのではなく、珍しい紫の下紐を見たい」と云う言い訳を作ってあげて、妻問ひの許可を求めたのでしょうか。

 今回の鑑賞は服装の色目を中心にしましたが色々と想像させられますし、当時の貴族たちは服装に合わせ化粧や装飾品を考えていたようです。例として万葉集の歌々から、男は色目美しい服を着、頭には頭巾をかぶり、そこに花枝を挿す。このような姿で馬に乗り、女の許に通うのが風流士だったようです。女もまたそれに応対するのが礼儀ですし、それが光儀と称される姿振る舞いなのでしょう。

 最後に、紹介しました化粧方法や化粧品などの与太話は主流のものではありません。主流は平安時代後期以降の様子をそのままに奈良時代に反映したもので、古代は一律に厚塗り白粉を化粧の基本とします。
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