竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百二九 人麻呂の「古」を鑑賞する

2015年08月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百二九 人麻呂の「古」を鑑賞する

 毎週、万葉集に関係して馬鹿話や与太話を垂れ流していますが、やはり、種を探すのは大変です。もうそろそろ、と思う今日この頃です。
 今回は種切れと云うことで、柿本人麻呂歌や柿本人麻呂歌集の歌に「古」と云う漢語を持つ短歌が十首ほどありますから、この「古」と云う言葉を中心に歌を鑑賞していきたいと思います。それも歌番号の若い順から鑑賞しますので、作歌年代や歌が詠われた背景などはある程度、無視をしています。歌番号に囚われずに時代と背景とに編集すると良いのですが、根が無精なところと、諸般の事情でご勘弁下さい。

 さて、鑑賞の筆頭は集歌46の歌です。これは有名な「軽皇子宿干安騎野時、柿本朝臣人麿作歌」に載る反歌四首の内の一首です。

集歌46 阿騎乃尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良 自八方 古部念尓
訓読 阿騎の野に宿(やど)る旅人打ち靡き眼(い)も寝(ぬ)らしやも古(いにしへ)思ふに
私訳 阿騎の野に宿る旅人は薄や篠笹のように体を押し倒して自分から先に寝ることができるでしょうか。昔の出来事を思い出すのに。

 この歌の「古」は、次の集歌49の歌から草壁皇子が生前に阿騎の野で行った狩の場面と云う説と、それに加えて軽皇子の十歳と云う年齢と草壁皇子が十歳で体験した重大な事件、壬申の乱での吉野逃避の場面を示すと云う説があります。弊ブログでは両方の場面を示すものとして鑑賞をしています。

集歌49 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御羯立師斯 時者来向
訓読 日並皇子の尊の馬並(な)めて御猟(みかり)立たしし時は来向かふ
私訳 日並皇子の尊が馬を並び立てて御狩をなされた、そのような時刻になってきたようです。

 なお、壬申の乱での吉野逃避の場面を示すとしますと、人麻呂と高市皇子との祭神(市杵島姫)が同じであることや挽歌を献じた姿から推定して人麻呂は壬申の乱で大海人皇子の軍に従軍していたと考えるのが相当になります。


 次に、集歌266の歌を鑑賞します。この歌は「夕浪千鳥」と云う人麻呂独特の造語で、かつ、その美しくも的確に景色を表現していることで有名な歌でもあります。
 ただし、「古」と云う言葉を中心に鑑賞するのですと、非常に判り易い歌でもあります。人麻呂は壬申の乱で大海人皇子の軍に従軍した人物であり、飛鳥浄御原宮の官人です。その立場からしますと、近江大津宮や、そこで統治を行った天智天皇が「古」と云う言葉の対象になります。

集歌266 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思奴尓 古所念
訓読 淡海(あふみ)の海夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば情(こころ)もしのに古(いにしへ)そ念(も)ゆ
私訳 淡海の海の夕波に翔ける千鳥よ。お前が鳴くと気持ちは深く、この地で亡くなられた天智天皇がお治めになった昔の日々を思い出す。


 継いで紹介する集歌497の歌の「古」と云うものは難解です。歌は「柿本朝臣人麿謌四首」と云う標題を持つ歌群の中の一首で、およそ、持統天皇四年の紀伊行幸での歌であろうと推定されています。
 そうした時、では、この歌は紀伊行幸の中のどの場面で詠われたのかが重要になります。なお、この四首組歌では最初の二首が男歌、後の二首が女歌ではないかと推定されており、歌物語的な相聞歌の関係にもあります。


集歌497 古尓 有兼人毛 如吾歇 妹尓戀乍 宿不勝家牟
訓読 古(いにしへ)にありけむ人も吾がごとか妹に恋ひつつ寝(い)ねかてずけむ
私訳 天之日矛の伝説のように昔の人の天之日矛も私のように貴女を恋しく夜も眠れなかったのでしょうか。そして、私が貴女を追ってきたように阿加流比売神を追って来たのでしょう。

 さて、紀伊国には日前・国懸神宮と云う天皇家と深い所縁のある神社があり、そこから天皇の紀伊行幸があれば訪れ斎くべき場所でもあります。その日前・国懸神宮には天照大御神の天岩戸隠れに関係する「日矛」が収められており、ここから穴師坐兵主神社の神体は日矛とされ、また天日槍(天之日矛)であることから、日前・国懸神宮は天日槍に関係する神社であると推定されてきました。そうした時、人麻呂と同時代の歴史書である『古事記』にはこの天日槍に因む恋愛譚が載せられており、新羅の王子である天日槍が新羅から大和へ愛人である阿加流比売神を追いかけて遣って来たと説話を載せます。
 つまり、天皇行幸に同行する恋人に遅れて紀伊国へと行幸を追って人麻呂がやって来て、日前・国懸神宮付近に滞在する行幸に追いついたとしますと、天日槍と阿加流比売神との恋愛譚を下地に歌を恋人に贈っても不思議ではないことになりますし、旅先の歌としては風流でもあります。その風流が「古尓有兼人毛」と云う言葉に凝縮されます。現代風な解釈ですと日前・国懸神宮の参道に集歌497の歌の歌碑を立てますと、若い女性が自分に恋い焦がれる男の子がきっと現れると云うような解釈になるでしょうか。
 その自分を好いてくれる男の子がやっとやって来て、優しく抱いてくれた時の女の子の、ちょっと拗ねた、それでいて、きっと好いてくれている確認での歌が次の歌でしょうか。「きっと、追いかけてくれると思ったのし、遅いじゃないの」ってな感じでしょうか。

集歌498 今耳之 行事庭不有 古 人曽益而 哭左倍鳴四
訓読 今のみし行事(わざ)にはあらず古(いにしへ)し人ぞまさりて哭(ね)にさへ泣きし
私訳 男性が女性を邪険にするのは今に始まったことではありません。昔の人の阿加流比売神は相手の男性につれなくされて、今の私以上にもっと恨んで泣いたのでしょう。

 当然、集歌498の歌は集歌497の歌を受けたものですから「古人曽」は阿加流比売神を意味することになります。
 一見、与太話のようですが、人麻呂時代、『古事記』は大まじめな政治思想書であり、大和氏族の身分と政治勢力の根拠でありました。また、日前・国懸神宮は伊勢神宮と並ぶ皇室所縁の神宮の扱いでありましたから、その創建の由緒や伝承は宮中官人や宮人には教養であったと推定されます。そのような背景をもって鑑賞すべき歌と妄想しています。


 先の集歌497の歌と集歌498の歌とでは『古事記』に載る天日槍の神話まで足を延ばしました。ただ、天日槍の神話は新羅の王子に由来を取りますから、「古」はせいぜい二世紀から三世紀でしょうか。確かに「いにしへ」ですが、だからと云って極端に古い時代ではありません。現代人が江戸期から明治期を見るような感覚でしょうか。
 しかしながら、次の集歌1118の歌はもう少し古い時代の物語が背景にあると思われます。歌の場面はこの歌の次に置かれた集歌1119の歌の表情から、亡くなった人を弔う歌と思われます。これが鑑賞のベースとなります。

集歌1118 古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜尓 插頭折兼
訓読 古(いにしへ)にありけむ人も吾がごとか三輪の檜原(ひはら)に挿頭(かざし)折(を)りけむ
私訳 昔にいらしたと云われる伊邪那岐命も、私と同じでしょうか。三輪の檜原で鬘(かづら)を断ち切って、偲ぶ思いを断ち切ったのでしょうか。

集歌1119 往川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者
訓読 往(ゆ)く川し過ぎにし人し手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪し檜原は
私訳 流れいく川のように過ぎて去ってしまった人が、もう、手を合わせて祈ることがないので寂しそうに立っている三輪の檜原の木々は。

 さて、集歌1118の歌を鑑賞する時、キーワードとなる漢字があります。それが「折」です。この「折」と云う文字は康熙字典では「曲也、屈也、断也、毀也」などと意味を紹介されるものであって、現代日本語で示す「おる、おれる、まがる」や「わける」だけではありません。時に「ばらばらにする」や「すてる」と云った意味合いを持つ文字でもあります。このように現代人と中古代人では語感が違うと思われる言葉です。
 クイズではありませんが、人麻呂が「古」と云う言葉を使う場合、『古事記』の説話が射程圏内にあります。それを前提に「死者、弔う、カンザシ(髪飾り)、バラバラ」と云う言葉で説話を探しますと、伊邪那岐命と伊邪那美命との神話に出合います。
 その神話では、伊邪那岐命が死んだ伊邪那美命を追って根国に出かけていきます。その根国で伊邪那岐命はおぞましきものに取りつかれ、変わり果てた伊邪那美命の姿を見ます。そして、そのおぞましさに怖気づき、伊邪那岐命はこの世へと逃げて帰ります。その時、己の恥を見たと怒った伊邪那美命に命じられて根国へと引きずり戻そうとする追手から逃れるために伊邪那岐命は自分の髪を飾る黒御鬘を投棄て、それがはじけてブドウの実に変わり、その実を追手たちが食べている隙に、やっとのことでこの世と根国とを区切る黄泉の比良坂に辿り付きます。この時、伊邪那岐命は互いに罵り合うことで、死んだ伊邪那美命への想いを断ち切っています。このような神話が『古事記』にはあります。
 このように『古事記』に遊びますと、集歌1118の歌を鑑賞する時、白昼妄想に浸ることが可能となります。昔から「理屈と絆創膏」はどこにでもくっつくと云いますが、実にその姿です。「いかにも」と云った姿を持った説明文は、このようにいかようにも尤もらしく作ることは可能です。伝承では三輪山の奥宮には伊邪那岐命と伊邪那美命との所縁の天矛が祀られていますし、明日香の里から三輪の檜原を眺めたとき、その視線の先は一致します。


 先の集歌1118の歌の「古」を鑑賞するには白昼妄想に浸るか、大量に酒を飲み酔っぱらう必要がありましたが、次の集歌1725の歌の「古之賢人」は非常に簡単です。『古事記』に載る説話からすれば疑う余地は全くありません。直ちに三韓征伐の帰途の神功皇后と吉野離宮の説話が導かれます。

集歌1725 古之 賢人之 遊兼 吉野川原 雖見不飽鴨
訓読 古(いにしへ)し賢(か)しこき人し遊びけむ吉野し川原見れど飽かぬかも
私訳 昔の高貴な御方が御出でになった吉野の川原は、美しくて見ても見飽きることがありません。

 なお、現代の持統天皇が吉野に遊んだ吉野離宮は宮滝であるとする観光資源からの通説の立場からしますと、神功皇后と吉野離宮の説話は非常に都合が悪い話です。現在、何もこれと云うものはありません。ただ、神功皇后の吉野離宮は古市付近にあったと推定されていますし、人麻呂は芳野行幸での集歌36の長歌で吉野離宮は「吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波」にあると詠います。つまり、吉野離宮は秋津野にあって、宮滝にはないことは明白です。でも、観光資源と云う商業的要請で、神功皇后や応神天皇の吉野離宮や持統天皇の吉野離宮は宮滝だと云うことになっています。明治の廃仏毀釈運動までは三輪山は仏教の聖地であって、神道の聖地ではなかったと云う事実と同じです。
 おまけとして秋津野の由来となった雄略天皇と吉野孃子との恋愛譚は有名です。神功皇后と吉野離宮の説話もそうですが、雄略天皇が吉野川の川原に御呉床を設けて吉野孃子を傍らに置き、琴を演奏させ、また、田舞の原型となるような舞を舞わしたと云う伝承も捨てがたいと思います。


 次いで鑑賞します集歌1795の歌は標題に示すように宇治若郎子=応神天皇の末皇子であり、応神天皇の後を継いだ仁徳天皇に対しては異母弟にあたります。祭神関係からしますと、現在の宇治神社付近で詠まれた歌と推定されています。この歌もまた『古事記』に載る説話と縁が深いものです。
 歌の鑑賞はそのものズバリです。それ以外、何もありません。

宇治若郎子宮所謌一首
標訓 宇治若郎子(わくご)の宮所の歌一首
集歌1795 妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟
訓読 妹らがり今木の嶺し茂り立つ嬬松し木は古人見けむ
私訳 恋人の墓の許に今やって来た。今木の嶺に茂り立ち、私の訪れを待っている亡き妻の葬られた、その松の木は昔に宇治若郎子の死を同じように見たでしょうか。


 ここまでの「古」は神代の昔から百年単位での伝説の大王の時代を示していましたが、次の集歌1798の歌は極端に近い昔のことを「古」と詠います。
歌が詠われたのが大宝元年(701)十月ごろであり、回想する場面は持統天皇四年(690)ですから、十年ほどの期間です。ただ、詠う人麻呂にとっては遥か昔と云う感覚であったのかもしれません。

集歌1798 古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下玉
訓読 古(いにしへ)に妹(いも)と吾(わ)が見しぬばたまし黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
私訳 昔に貴女と私が人目を忍んで寄り添って見た漆黒の黒牛潟を、独りでこうして見ていると寂しいことです。


 先の集歌1798の歌が極端に近い昔を詠いますが、次の集歌1814の歌は逆に極端に昔の昔、それも大和神話時代を詠います。

集歌1814 古 人之殖兼 杉枝 霞霏微 春者来良芝
訓読 古(いにしへ)し人し殖ゑけむ杉し枝霞たなびく春は来ぬらし
私訳 昔の人が殖えた立派な杉の枝に霞が棚引く。春は来たようだ。

 歌は人麻呂のものですから題材は『古事記』にあります。すると、『古事記』などの神話で木を植えた人は誰かと調べますと、素盞嗚尊の息子である五十猛命(いそたけるのみこと)に行き当たります。この五十猛命は奈良時代以前には現在の紀伊国日前・国懸神宮が鎮座している場所にあった伊太祁曽神社の御神体とされ、紀伊行幸が重ねられた奈良時代の官人には縁のある神様です。ですから、五十猛命の植林神話は射程圏内です。
 歌で云う「古」の時代とは素盞嗚尊が息子である五十猛命とともに新羅から出雲国にある斐伊川の上流、鳥上峯にやって来た時代です。神話の中でも相当に昔、昔に位置します。


 さきにみた集歌1814の歌は大和神話の最上流部に位置するものですが、次の集歌2019の歌は中国神話である牽牛織女の七夕伝説を詠います。この歌は七夕の中国神話を知っていて初めて鑑賞が出来ると云うものです。日本で最初の七夕の宴は天武天皇九年七月ではないかとされていますから、歌はそれよりも少し後でしょうが、それほどは時代を下らない持統天皇の時代初頭まででしょうか。
 参考として、末句「年序経去来」の用字の選択は人麻呂らしく、過去から未来へと七夕伝説は永遠に続くと云うような雰囲気を持たせるものです。

集歌2019 自古 擧而之服 不顧 天河津尓 年序経去来
訓読 古(いにしへ)ゆ挙(あ)げにし服(はた)も顧(かへり)みず天の川津に年ぞ経に去(い)く
私訳 古くから行ってきた仕事である服を織ることも忘れてしまって恋にふけったので神罰にふれ、恋人との仲を引き裂かれ、二人を隔てる天の川の渡りの湊で、恋人である彦星と年に一度だけ逢えると云う刑に処せられて、たくさんの年月が過ぎて行く。


 以上、人麻呂の「古」を鑑賞しました。
 当然、今回もまた「千三つ」であり、与太話です。紹介しましたものを真面目には受け止めないようにお願いします。また、学生・生徒のお方は、きちんとした解説書を参照してください。ただ、きちんとしたものを見た後、「うそつき」とは罵らないでください。最初に断りましたようにここでのものは与太話です。
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