竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 八二 東国、別れ歌を鑑賞する

2014年09月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 八二 東国、別れ歌を鑑賞する

 古代社会を想像する時、有名な社会制度に律令体制とそれを支えた租庸調の税制がありました。古代では地税に相当する租税は3%程度のものでしたから、農作物への課税は江戸期に較べると軽微なものでしたし、納税先は原則として同一行政区内の近隣の神社の蔵(社倉)や官衙の蔵です。(なお、ここでは元明天皇朝頃までのこととします。聖武天皇朝以降の強制的な出挙による農作物の搾取を行っていないことが前提です。)
 一方、人頭税に相当する庸税や調税は律令制度では際立った存在です。庸税は現在でも地方農村で存在する寄合共同作業に類似するもので水を利用する稲作農業では、ある種、必要悪である強制的な共同労働供給を要請される税です。他方、調税は役所から指定された物品・特産物を性別・年齢を基準に割り当てられた必要量を整えて、指定された場所に納入する必要のある税です。古代の風習では支配者に対する「貢」に相当するもので、この調税に応じるのが大変だったのではないかと想像します。調税の対象となる物品や特産物は官衙で取り纏められ、それを庸税として召集された人々が運脚として政府が指定した場所にまで運搬し、同行する地方役人が納入先で納税手続きをします。この政府が指定する場所が大変です。おおよそ、奈良の都が指定されます。つまり、良民に位置付けられた人々には地方から奈良の都まで運搬する義務があったと云うことになります。
 なお、一部の学説として養老律令の規定文章中に唐令に示される「車舟」の文字が無いことを根拠に調税納付は人力運搬のみによる方法だったと指摘するものがあるようです。ただし、調税納付に船や馬も使ったことは『延喜式』に載る規定からの推定や『続日本紀』の記事にもありますから、当時も、一番確実で最も経済的な運搬方法を採用して物品の輸送を行っていたものと思われます。ここで、古代の資料や『万葉集』の歌を鑑賞する時、当時の人々の平均寿命は四十歳以下であり、一度、病気や傷害を受けると治癒することなく死亡することはまれではなかったことを知る必要があります。人はギョウチュウのような寄生虫でも死亡することもありますし、昭和時代までは学校での寄生虫検査は、ある種、風物詩でした。つまり、旅の道中で病死することの原因を特別な「旅」と云う重労働に一義的に帰結することは短絡であり、学問ではありません。農漁村での平均寿命・死亡原因などとの照合を経て、事故率などを比較検討するのが学問です。現在まで調税納付に関わる事故率と当時の平均寿命などの関係を研究した資料やそれを引用したものを浅学のため見たことがありません。

 さて、長い前置きをしました。本題に入ります。
 『万葉集』巻十四には、その東国の運脚集団(又は衛士)を率いる役人が奈良の都へ出発する時の、それを見送る女性の歌があります。それが集歌3457の歌です。
 この歌の表情は、従来の東国農民は租庸調の税制の重さに悲嘆していると解説するものとは違い、非常に明るいものを持っています。女性の感情では、自分の夫もまた他の男たちが行って帰って来たように無事に自分の許に帰って来ることを前提とするような雰囲気です。そして、他の男たちが里に帰って来て都の女たちを抱いたことを自慢するように、きっと、自分の夫も都の女たちを抱くであろうことを前提としています。その明るさを感じ取る必要があるようです。東国の運脚集団の一定の比率で都への道中で確実に死亡するであろうと云うようなものはありません。

集歌3457 宇知日佐須 美夜能和我世波 夜麻等女乃 比射麻久其登尓 安乎和須良須奈
訓読 うち日(ひ)さす宮の吾(わ)が背は倭女(やまとめ)の膝(ひざ)枕(ま)くごとに吾(あ)を忘らすな
私訳 日が射し照らす大宮に居る私の大切な貴方は、大和の女の膝枕を使うたびに、私のことを忘れないでね。

 集歌3457の歌に呼応するような歌が同じ巻十四にあります。それが集歌3532の歌です。鑑賞の仕方では奈良の都で都の女を抱いた後で、故郷に残して来た妻との閨での営みを思い出す風情があります。つまり、都の女がしてくれない、故郷の妻の性癖から来る肌が合うと云う景色です。そして、集歌3534の歌は、しみじみと懐かしさを詠うものとなっています。

集歌3532 波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
訓読 春の野に草食(は)む駒の口やまず吾(あ)を偲(しの)ふらむ家の子ろはも
私訳 春の野で草の新芽を長く舌を延ばし食べる駒が常にもぐもぐと口を動かす。それを見ると、いつも話題に出して遠くに居る私を恋しく思っているでしょう、家に残した愛しい貴女よ。
注意 教室で歌を鑑賞しない場合は、この歌は「閨で妻が口と舌で夫のものを楽しむ」と鑑賞します。鳥の囀りではなく、舌を長く延ばして草を食む景色から妻を思い出したのがミソです。

集歌3534 安可胡麻我 可度弖乎思都々 伊弖可天尓 世之乎見多弖思 伊敝能兒良波母
訓読 赤駒が門出(かどで)をしつつ出(い)でかてにせしを見立てし家の子らはも
私訳 赤駒が家の門を出立するおりに、駒が行きしぶるのを見送ってくれた私の家に住むあの娘は、ああ、懐かしい。

 次に紹介する歌三首もまた巻十四に載る歌で、旅先から故郷の恋人を想う歌です。ただ、歌の内容からは直ちには旅先の状況が掴み難く、色々と旅先の様子を想像させられます。
 なお、不思議なのは、古代では道中の宿泊や食料の調達問題から旅立ちに際して相当な事前準備が要求されます。そのため、大げさに周囲に旅立ちを宣言する必要もなく、人々は誰が、何時、旅立つかは承知のことです。そのような状況ですが集歌3528の歌では「妹のらに物言はず来にて」とします。同様な表現は柿本人麻呂歌集の歌にも見つけることができますから、ある種、慣用句的な表現だったのでしょうか。それとも、「恋人に直接、二人だけで逢うと云う状況はなかった=恋人と別れの前夜に共寝をする暇がなかった」と云うことを暗示しているのでしょうか。このように、色々と想像させられます。
 色々と歌からは想像させられますが、現代の一般的な解説で「公共の要請での旅では行き倒れや病症死などがあり、人々は悲惨な生活だった」と云うものと違います。歌からは、旅人はその旅の目的地に着き、そこで故郷の恋人を恋しく詠い、さらにその歌を故郷に持ち帰り残されています。でもそこには生死をかけた苦難の旅と云う雰囲気はありません。そこも旅の歌としては不思議です。古代社会の研究者が示すものと万葉和歌が示す人々の生活には、なにか、ギャップがあります。

集歌3510 美蘇良由久 君尓母尓毛我母奈 家布由伎弖 伊母尓許等杼比 安須可敝里許武
訓読 み空行く国にもがもな今日行きて妹に事問(ことと)ひ明日帰り来(こ)む
私訳 大空を雲が流れ行く、あの雲の行き先が故郷だったらなあ。今日出かけて行って愛しい貴女に日頃の様子を聞き、明日には帰って来られるのに。

集歌3527 於吉尓須毛 乎加母乃毛己呂 也左可杼利 伊伎豆久伊毛乎 於伎弖伎努可母
訓読 沖に住(す)も小鴨のもころ八尺鳥(やさかとり)息づく妹を置きて来(き)のかも
私訳 沖に漂う小鴨のように八尺(=長い息)をする鳥。その鳥のように深い溜息をついた、あの娘を後に残して来てしまった。

集歌3528 水都等利乃 多々武与曽比尓 伊母能良尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比可祢都母
訓読 水鳥の立たむ装(よそ)ひに妹のらに物言はず来(き)にて思ひかねつも
私訳 水鳥が飛び立つようなあわただしい旅立ちの準備で、愛しいあの娘に言葉も掛けずに旅立って来て、思いは切ない。

 一方、防人は近隣への御用の旅や運脚使役として奈良の都への往復であるのと違い、最低三年の期間の別離となります。そのため、防人たちが詠う歌の感情は今生の別れに等しいものがあります。ただし、その離別の旅や防人の任務に対して決死隊のような雰囲気があるかのと云うと歌にはそれがありません。当時の防人の離別は、ある種、現代の南極越冬隊の隊員の家族との別れに似たようなものではないでしょうか。

防人歌
標訓 防人(さきもり)の歌
集歌3567 於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛
訓読 置きて行かば妹はま愛(かな)し持ちて行く梓の弓の弓束(ゆつか)にもがも
私訳 後に置いて行ってしまったならば貴女は、非常に愛おしい。貴女は持って行く梓の弓の弓束ででもあってほしい。

集歌3568 於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎
訓読 後れ居て恋ひば苦しも朝(あさ)狩(かり)の君が弓にもならましものを
私訳 後に残されここに居て恋焦がれることは苦しい。朝に狩りする貴方の弓にでもなれたら良いのに。
右二首、答
注訓 右の二首、答ふ

 参考として、この防人については「周防国正税帳」や「駿河国正税帳」の研究から難波と九州との往復は大船を使い、また、集結地からの往復の道中の食料は支給されたことが判明しています。また、任地では土地を与えられ、屯田兵のような形で自活していたようです。この屯田兵としての自活をベースに、時に現地の女性と家庭を持ち、結局、任地に土着し故郷に戻らなかった防人たちも多数、存在したようです。当然、当時の給与規定では中央から派遣される国守を含む行政官もまた現地で土地を与えられ耕作自弁することが要求されています。なにも防人だけが任地で耕作自弁するのではありませんでした。当然、歴史社会学者はこの社会規定を知っていますが、一般読者や学生はそれを知らないであろうとの前提で、あたかも防人だけが耕作自弁であったかのように説明します。実に色眼鏡です。

参考資料として新任国司等の官人に対する給粮の規定を紹介
養老八年正月二十二日格(『令集解』田令在外諸司条所引令釈);
凡新任外官、五月一日以後至任官、職田入前人。其新人給粮、限来年八月卅日。若四月卅日已前者、田入後人、功酬前入。即粮料限当年八月卅日。

意訳文
およそ新任外官の5月一日以降に任官に至るは、職田の生産物は前任人の収入に入れよ。その新たに任官した人には粮を給し、それは来年八月三十日までに限る。もし、四月三十日より前に任官の場合は、職田の生産物は後任人の収入に入れ、功酬による田からの生産物は前任人の収入に入れよ。新たに任官した人の粮料支給は当年八月三十日までに限る。

 補足情報として、天平十年の「周防国正税帳」の記録からは推定1800人余りの任期を終えた防人たちが大宰府那津から難波大伴湊まで無事に海上輸送で送り届けられていることが判明しますし、同様に同年天平十年の「駿河国正税帳」からは千人を越える還郷防人に食料を支給したことも読み取ることができます。こうしてみますと、一般的に紹介される防人像での、その帰赴任の食糧は自弁であり、現地では悲惨な生活を暮らしたと云うものは、どうも、当時の実情とは違っているようです。なにを根拠に帰赴任の食糧は自弁との説が誕生したのか、不思議です。また、『万葉集』の歌からも藤原京から平城京時代は九州那津から難波大伴湊、また、その大伴湊から伊豆国三島まで大船の運航があったことが窺われます。また、房州地域でも湊廻りの伝馬船に関する歌があります。

<瀬戸内海の海上交通>
柿本朝臣人麿下筑紫國時、海路作歌二首
標訓 柿本朝臣人麿の筑紫国に下りし時に、海路(うなぢ)にして作れり歌二首
集歌303 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
訓読 名くはしき稲見の海し沖つ波千重に隠れぬ大和島根は
私訳 名が詳しく知られる稲見の海の、沖合の波よ。そのたくさんの波間に隠れてしまった。大和の山波が。

<東海道方面の海上交通>
田口益人大夫任上野國司時至駿河浄見埼作謌二首
標訓 田口益人(ますひと)大夫(まえつきみ)の上野國(かみつけのくに)の司(つかさ)に任(ま)けらえし時に、駿河の浄見埼(きよみのさき)に至りて作れる謌二首
集歌296 廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
訓読 廬原(あしはら)の清見(きよみ)の崎の三保し浦の寛(ゆた)けき見つつ物念(おも)ひもなし
私訳 廬原の清見の崎にある三保の浦が広々と豊かな様を眺めるいると、旅路の不安はない。

集歌297 晝見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
訓読 昼見れど飽かぬ田児(たご)浦(うら)大王(おほきみ)し御言(みこと)恐(かしこ)み夜見つるかも
私訳 昼に見ても見飽きることのない田児の浦よ。大王の御命令を畏まって承って、その田児の浦を夜に拝見します。

<房州地域の海上交通>
鹿嶋郡苅野橋別大伴卿謌一首并短謌
標訓 鹿嶋郡(かしまのこほり)の苅野(かるの)の橋にして大伴卿に別れたる謌一首并せて短謌
集歌1780 牝牛乃 三宅之酒尓 指向 鹿嶋之埼尓 狭丹塗之 小船儲 玉纒之 小梶繁貫 夕塩之 満乃登等美尓 三船子呼 阿騰母比立而 喚立而 三船出者 濱毛勢尓 後奈居而 反側 戀香裳将居 足垂之 泣耳八将哭 海上之 其津乎指而 君之己藝歸者
訓読 牝牛(ちちうし)の 官家(みやけ)し坂に さし向ふ 鹿島し崎に さ丹塗りし 小船(をふね)を設(ま)け 玉(たま)纏(まき)し 小梶(をかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き 夕潮(ゆふしほ)し 満ちの留(とど)みに 御船子(みふなこ)を 率(あとも)ひ立てて 喚(よ)び立たてて 御船(みふね)出(い)でなば 浜も狭(せ)に 後れ並み居て 反(こい)側(まろ)び 恋ひかも居(を)らむ 足(あし)垂(たり)し 泣(な)くのみや哭(ね)かむ 海上(うなかみ)し その津を指して 君し漕ぎ帰(い)かば
私訳 乳を採る牝牛を飼う官家のある坂に向かい立つ鹿島の崎に、丹を塗った官の使う小船を用意して、小さな梶を艫に取り付けて、夕潮が満潮になり、御船の水手達を引き連れ立て、呼び立てて、御船が出港すると、浜も狭いほどに後に残される人たちは並んで居て、悲しみに転げまわって貴方のことを慕うでしょう。寝転びて足をバタバタして泣くだけして貴方との別れを恨むでしょう。下総海上にある、その湊を目指して貴方が乗る船が漕ぎ行くと。

反謌
集歌1781 海津路乃 名木名六時毛 渡七六 加九多都波二 船出可為八
訓読 海(うみ)つ路(ぢ)の和(な)きなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
私訳 海路を行くに凪である時を択んで渡るでしょう。このように波立っている波間に船出をするべきでしょうか。
右二首、高橋連蟲麻呂之謌集中出。

 やはり、「古代人、特に農民は悲惨な生活であった」との期待と要請からの色眼鏡を捨て、正しく資料を読み解き、『万葉集』の歌を鑑賞するのが良いのではないでしょうか。
 非常にバカバカしい話ですが、地方の物品を運搬する運脚集団が奈良の都への往復で要する食料の重量と運搬する物品の重量、それに対応する運搬手段や必要な運脚の人数、また、所要日数などを真面目に計算し、古代交通を研究したものはあるのでしょうか。遣唐使は約二十年の一度の行事ですが、調物の運脚は毎年のことです。毎年、全国規模での運営において多大な犠牲者を出したのでは、その制度自体が運営出来なくなることは中学生以上なら気が付くものでしょう。少なくとも、基本的な律令体制が持統天皇朝から聖武天皇朝までは確実に運営されていたことからすると非常に現代の古代史観は不思議です。そして、忘れてはいけないことに、『万葉集』に載る歌は基本的にこの律令体制が確実に運営されていた時代のものですし、その時代を反映しています。
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