竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 その十八 庶民は何を食べていたのか

2013年02月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その十八 庶民は何を食べていたのか
貪窮問答謌の世界を考える

 今回は、題として「庶民は何を食べていたのか」と付けていますし、内容は庶民の食生活に対する疑問がベースとなっています。そのため、一見、万葉集とは直接には関係が無いようなものとなっています。そこを御了解、下さい。

 さて、奈良時代の庶民、多くは農民になりますが、彼らが日常、何を食べていたかを考えてみたいと思います。その手始めに万葉集の歌から、山上憶良が詠う貪窮問答謌の抜粋を紹介します。

貪窮問答謌一首并短謌 より部分抜粋
原文 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提
訓読 竃(かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣掻(か)きて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて
私訳 竃には火を燃やさず、飯を蒸かす甑にはくもの巣を払って飯を炊くことも忘れ、

 庶民の食事と云う面から、現在、この山上憶良が詠う貪窮問答謌の内容などや発掘された木簡資料などを参照して奈良文化財研究所が奈良時代の庶民の食事を復元して発表しています。時にこれをインターネットで照会しますと奈良県立教育研究所が中学校社会科指導資料に採用するなど、教科書類にも使われているとのことですので、多くの人々の知る処のようです。その復元された庶民の食事の写真からすると「主食+汁+青菜+塩」のみです。
 ただし、この研究と成果に学問的な正当な根拠があるのかと云うと重大な問題が存在するようです。その重大な問題とは、この復元された庶民の食事の内容では人が生存できないと云う医学・栄養学的な根本的な問題です。この問題について栄養学の分野から指摘したものがインターネットで閲覧することが可能ですので、その抜粋を紹介します。

福岡女子短期大学食物栄養科のHP「万葉時代の食事について」から引用;
“この歌が真実をうたったものか、それとも象徴的なものとしたフィクションか、すべての庶民がこのような暮らしだったのかはわからないが、貧しい生活を送っていたことには変わりない。大宰府政庁近隣の高官たちが暮らす地域を少し離れると、庶民たちの竪穴式住居があったという。
 食事は一汁一菜を基本としていたが、貴族は米を常食としていたのに対し、庶民は米を税として納めるため、雑穀(粟・稗)を主食としていたようである。これに青菜を使った羹(汁物)が付き、良い時で何かもう一品ついたのではないかと推測されている。土地的に山野があり、海も近かったことから自然の食材料が入手できたと考えると、魚や山菜も食べられていたのではないかと思う。
 写真は奈良文化財研究所が再現した庶民の食事である。この再現では、1食わずか407kcalであった。食事回数は朝と晩の一日二食が原則だったので、一日の栄養摂取量は1,000kcal以下になる。例えば、現代の30代男性の推定エネルギー必要量は2,650kalであり、そのうち生きるために必要な最低限のエネルギー(基礎代謝量)は1,500kcalである(表1参照)。これは運動量(身体活動レべル)が「ふつう」の人の場合であって、奈良時代の農民ともなると運動量は非常に多かった(身体活動レベル「高い」)であろう。現代人との体格の差を考え、これと相殺したとしても、1日1000kcalでは非常に少ない。
 白米主体の貴族の職よりもむしろ庶民の雑穀食のほうがビタミンやミネラルも豊富で、ビタミンB1欠乏症といわれる脚気の恐れも少なかったと考えられる。脚気に関しては、生貝、特に、はまぐりはアノイリナーゼというビタミンB1分解酵素を含んでいる。日本人に多かった脚気は白米食や貝類の生食も一因ではないかと推測される。食器は土師器・須恵器・木製品であった。”
<注意:「写真」と「表1」はブログ書式の都合により掲載していません。>

 追加参照として、生きるために必要な最低限のエネルギーの指標である基礎代謝量は次の公式で、参考値を得ることが出来ます。つまり、生物として生きている限り、身長と体重を当てはめれば、奈良時代であろうと、現代であろうと、一義的に定まります。その時、「古代人は我慢強い」とか、「古代人は貧栄養に慣れている」とかの解説で逃げることはできません。

≪国立健康・栄養研究所の式(Ganpule et al., EJCN, 2007)≫
基礎代謝量(kcal/日)={0.0481×体重(kg) +0.0234×身長(cm)-0.0138×年齢-0.5473× (男性: 1, 女性: 2)+0.1238}×1000/4.186

 一方、日本人の身長の変化を時代毎に調査した研究では、古墳時代から奈良時代にかけての男子平均身長は163cmで、これは昭和後期になるまで歴史的に一番、体格が良い時代であったとされています。この原因として、穀物生産において十分な余剰があったこと、仏教の影響を受けず動物性タンパク質を十分に採れたためではないかと推定されています。ちなみに男性三十代の平均身長は1950年で160cm、2010年で171.5cmです。また、このころ、人口が急増する人口爆発があったことも注目されています。
<注意;タニタHP健康コラム「昔の人は細マッチョ? 日本人の体格の歴史」より>

 ここで試算ですが、奈良時代の成人男子の平均身長を163cmとし、BMI指数を標準下限の18.5としますと、体重は49.2kgとなります。これから先の基礎代謝量の公式に当てはめますと、当時、標準的な成人男子の二十五歳での基礎代謝量は1247 kcal/日となります。これに労働に要するエネルギーを加えますと、福岡女子短期大学の推定より減りますが2000 kcal/日程度以上の栄養を取る必要はあったものと考えられます。生活する上において1日1000kcal程度の食事内容を紹介することとは、ある種の「学問的な遊び」であって、真摯な研究者が行う科学的な研究発表ではないことが判ります。
 つまり、奈良文化財研究所の研究が奈良時代の庶民の食事を復元する目的が当時の人々の生活の復元と云う趣旨と云うものであるならば、研究成果において「その食事では人が生存することが出来ない」と指摘された段階で、その研究はどこかで間違っていることになります。また、その研究では、歴史上、当時の人々の体格が良かったことや人口爆発があったことなど、食べ物が豊富であったことが示唆される時代を説明することも不能と考えます。

 さて、庶民の食事内容の検討に入る前に食事で使う食器について考えてみたいと思います。特に、その食器の内、箸について調べてみますと、ウキペデアには次のような伝来と使用の歴史の解説があります。

“2本で1膳の「唐箸」を食事に使い始めたのは、5世紀頃とも、6世紀中頃に仏教とともに百済から伝来してからとも言われるが、朝廷の供宴儀式で採用したのは聖徳太子とされ、607年遣隋使として派遣された小野妹子一行が持ち帰った箸と匙をセットにした食事作法を取り入れたものと言われる。日本で最も古いとされている箸は7世紀後半の板蓋宮跡および藤原宮跡からの出土品とされる”

 箸食の文化が大陸からの渡来の風習であるという箸の歴史からしますと、百済の役以降、日本各地に大量に移り住んだと云う渡来人を日本人主流と考えない場合、少なくとも奈良時代初期までの庶民の食事の風景には、箸は、まだ、登場しません。生活風習・習慣の変革に対して庶民一般が保守的であることや文化の伝播速度を考えますと、貴族・豪族・役人階級は別として、奈良時代、一般庶民(多くは農民)の食事の時に箸で食事をしていたとの想定は間違っていることになります。考古学の発掘からすると、食器としては木製の匙(サジ)や箆(ヘラ)、場合により小枝のような棒が基本だったと推定されます。従いまして、庶民の食事は匙か、手掴みで行われたと思われます。
 なお、食事において調理方法は重要な要素ですので確認しますが、奈良文化財研究所が公表している庶民の食事のサンプル写真では主食が赤黒い米飯が皿に円錐形に盛られています。この形状からこれは甑(こしき)を使って蒸しあげた強飯(こはいひ)と呼ばれるものと推定します。少なくとも煮炊き調理法から粥に分類され、その内の堅粥(かたかゆ)である弱飯(ひめ)とか、姫飯(ひめいひ)と称される粒の崩れた粥飯ではないと考えます。
 では、当時の庶民の食事はどのようなものだったかと云うと、少なくとも明治時代までは農村での庶民の食事であったと思われる「かて飯」ではないかと考えます。これは、弱飯とか、姫飯とか云う、現在の米飯調理法の原型になった煮炊きによる米の調理において米や雑穀を炊くと同時に副菜を加えて調理したものです。つまり、現在で云う固めの雑炊(又は、おじや)です。考古学発掘においては土師器で穀物を煮炊きして調理した痕跡が残る底の浅い甕や土鍋、それに食事に使ったと思われる小ぶりの椀、また、木製の匙や柄杓などが出土していますから、遺物的には当時の食事として「かて飯」を復元することは可能です。また、「かて飯」の歴史は確実に奈良時代まで遡り確認が出来るようです。
 ここで、江戸や明治期に農漁村などで一家総出で労働するような時、庶民の食事が「かて飯」であったならば、主食と副菜とを複数に調理する必要のない「かて飯」と云うものが、穀物の栽培が始まって以来、庶民の食事として食べられていなかったとの発想はあり得ないと思います。つまり、「かて飯」の歴史は奈良時代より、もっと、遡るものと考えます。それは、ただ、祭りや客人を持て成す「ハレ」の場での食事では無いために記録に残らないだけと考えます。こうした背景があるためか、ウキペデアでは「かて飯」の説明として次のような文章を載せています。

“かつて農業技術が未発達だった時代の日本では、米はぜいたく品だった。白米のみを炊いた飯は、盆や正月、冠婚葬祭などハレの日にしか味わえないごちそうだった。そのため日常の食事では飯に麦や粟、稗などの雑穀、あるいは大根、山野草、芋など野菜類を炊き込むか、混ぜ込んで量を増やしていた。こうした混ぜご飯を「糧飯」(かてめし)と呼ぶ”

 こうしますと、奈良文化財研究所が庶民の食事として紹介する主食に、品質は悪いのでしょうが、どうして、強飯と呼ばれる米だけを甑で蒸しあげた「ハレ」の日の米飯を採用したのかの根拠が知りたいところです。
 こうした時、遺跡発掘において甑と煮炊きした土鍋等との比率が気になります。「主食+汁+青菜+塩」のような食事において強飯が主食ですと、調理機会の関係から発掘される甑は調理の痕跡が残る土器類の中ではその中心を占めるはずです。もし、逆に甑の比率が低い場合は主食に副菜を混ぜ込んで調理する「かて飯」の可能性が高くなります。奈良文化財研究所の判断は、庶民が暮らしていたと推定される遺跡でのこの甑の土器類に占める比率からのものでしょうか。なお、王宮や貴族・豪族たちの屋敷の遺跡での調査結果は、庶民の食生活とは関係ないものとします。
 次に、では、なにを食材として一般庶民(多くは農民)は食べていたかを考えてみたいと思います。しかしながら、この結論は非常に簡単です。物々交換や貨幣での購入を伴わない身の回りで採れるもの、全てを食べていたと思います。
 参考として、当時、推定される西日本での農村部の食糧の一例として海産物を除いて示します。

穀物類;コメ、ムギ、ヒエ、アワ、ダイズ、アズキ、等
野菜類;ダイコン、カブ、サトイモ、ヤマノイモ、ムカゴ、水葱(ミズナギ)、フキ、ヨモギ、アザミ、コゴミ、ワラビ、クズ、ウコギ、ノビル、ユリネ、タンポポ、オミナエシ、イヌタデ、ヒシ、マコモ、セリ、ジュンサイ、アケビの芽や花、ウリ、ヒョウタン、ショウガ、タケノコ、ウルイ、ハスの茎葉、レンコン、木の芽、木の実、キノコ、等
川魚類;アユ、ウナギ、コイ、フナ、モツゴ、ハヤ、オイカワ、ドジョウ、ナマズ、ウグイ、ゴリ、ワカサギ、ムツゴ、モロコ、等
鳥獣類;イノシシ、シカ、タヌキ、イタチ、キツネ、ウサギ、イヌ、スッポン、キジ、ウズラ、ニワトリ、カモ、メジロ、カワラヒワ、マヒワ、カケス、ヒヨドリ、モズ、ツグミ、セキレイ、ヒタキ、コマドリ、等
その他;シジミ、タニシ、カラスガイ、モズクカニ、サワカニ、アカカエル、イナゴ、ハチ、ハチの子、等

 ここで示した食材は一部のものを除き、昭和三十年以前の地方の者には馴染みのある食べ物です。逆にそれぞれの地方によっては購入や交換と云う手段を経ずに自然から入手可能な食材の品目は、もっと、豊富であったと考えます。タンパク質の分類で、入手性からすると、川魚でも雑魚に分類される小フナ、モツゴ、ハヤ、オイカワ、ドジョウ等は、非常に容易に捕獲が出来、一方、捕り尽くすことは無かったのではないかと考えます。また、シジミやタニシも同様であったと考えます。これらを季節に合わせ、穀物類とともに「かて飯」にして食べていたと考えます。
 奈良時代において、農村では江戸期の農村と同じように塩と鉄の入手以外は自給自足の生活が基本であったと考えます。また、律令体系の税法では、農民は租としての食糧生産、庸としての作業労働の提供および調としての二次産品の生産と、三つの分野からの社会の関与が求められていました。しかしながら、本来の租の税率は稲の収穫において田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に相当します。つまり、ほとんどの稲の収穫は農村に残されたことになります。従って、平年という条件下では農村で入手困難な塩と鉄の入手の為に農作物を交換で供出してしまった場合を除くと、主食となる穀物が不足すると云う事態は生じなかったと考えます。ここが、江戸期の農民と決定的に違います。奈良時代の農民は手工業者的立場での調で指定された商業製品の納付の義務が重く、江戸期の農民は年貢としての米の納付義務が重いという特徴があります。農村の食事と云う視点では、この律令体制での税制と江戸期の税制が根本的に違うと云うことを失念することは出来ません。
 先に示した食料品目は非常に豊富です。一方、福岡女子短期大学のHPでのものもそうですが、その専門家の人たちが示すものと大きく違います。先に紹介した奈良文化財研究所の研究成果での庶民の食事は米と塩が中心でしたし、貧弱でした。どうして、これほどの差が生じるかと云うと、それは現在に残る文献で確認できたものと云う制約の範囲での研究成果であったためと考えます。つまり、奈良文化財研究所については文献に残された朝廷が徴発した労働者に渡された食糧の支給記録だけから庶民の食生活を推定したからだと考えます。参照する資料としては奈良時代後期に行われた石山寺改修工事の記録があり、そこには鋳物師や木工の匠などの技能労働者の報酬は功銭(職種や技能により銭10~20文)と現物給与としての食料(1日の労働で米2升=現在の桝で8合と塩4勺、それに副食物調味料等)だったと記録されています。また、東大寺の大仏建立事業では単純労働での成人男子の労賃は一日銭1文であったとされています。<参考;当時の銭1文の貨幣価値は米2kg=13合相当、一日銭1文は現在なら日当1000円相当>
 これらの記録では動物系タンパク質や野菜などの副菜材料を支給したとの記載はありません。そのため、庶民の食事として「主食+汁+青菜+塩」のみとして紹介した研究者は、記録に残る支給材料に加えて、万葉集の歌に載る若菜摘みや水葱(ミズナギ)の言葉から、わずかに一汁の他に副菜として青菜を想像したものと考えます。周囲の自然から無料で手に入る動物性タンパク質類の食物を食べたであろうと云う可能性を排除して、このような成果としたのは、おおよそ、考証古学的立場からの古いタイプの研究者がする「どこに、それが書いてあるのか?」と云う非科学的な態度からの制約下によるものと考えられます。
 当然、周辺の自然から自家調達を行った場合、本質的に購入記録や荷札などの資料は残りません。従って、一般庶民の調理方法について記録したものが発見されない限り、自家調達で食事を準備した場合、「どこに、それが書いてあるのか?」との質問には答えることは困難です。そのため、非科学的な結論となるのは承知の上ですが、文献検索上では米と塩を中心とした食事を示すことが無難となります。また、その方が「当時の庶民は搾取され、困窮していた」とする迷信に沿うものになりますので、研究成果としての座りは良かったのであろうと考えます。当然、そこには歴史を踏まえた文化人類学や民俗学と云う別な方面からの視線はありません。あくまで危うい古いタイプの考証文献学だけです。本来、文献が不足すると思われる場合は仮定と実証や反証などを行い、仮説や理論を組み立てるのが科学的アプローチと愚案します。
 単純計算ですが、先の東大寺の作業員が五人で一人の飯炊き女を食事との交換条件で雇い、その飯炊き女が薪採りと野菜摘みを行い、作業員は六日に一度の休みに雑魚を採るとしますと、一日当たり一人9合の米を野菜と雑魚を入れて「かて飯」として食べることは可能です。米の二倍の価格であったとされる塩の購入を含めても7合以上の米は食べられたと思われます。江戸時代で一人一日5合とされていますから、結構、豊かな食生活です。

 ここでもう一度、山上憶良の貪窮問答謌の一節に戻りたいと思います。

貪窮問答謌一首并短謌 より部分抜粋
原文 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提
訓読 竃(かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣掻(か)きて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて
私訳 竃には火を燃やさず、飯を蒸かす甑にはくもの巣を払って飯を炊くことも忘れ、

 この歌の一節には「甑(こしき)には」との言葉が使われていて、この甑とは米を蒸すための用具ですので、調理される米飯は強飯です。古くから日本の食事には特別な場面での「ハレ」の食事と日常での「ケ」の食事との区分がありました。日常での「ケ」の食事が底の浅い甕や土鍋で穀物類と副食材とを一緒に煮炊く「かて飯」としますと、甑で米を蒸した強飯は「ハレ」の食事です。
 つまり、貪窮問答謌で詠われている農民の景色とは、日常ではなく特別な「ハレ」の日の景色です。およそ、困窮し食事もままならないと云うものではなく、寒い冬の早朝、農村を巡視に来た役人の為に「ハレ」の食事として強飯で朝食を用意するために早起きさせられて迷惑をしている姿か、何かの祭りで「ハレ」の食事として強飯を用意するために村長から叩き起こされている農民一家でしょうか。それも、その一家には「ハレ」の食事を調理する竃と甑とを持っていますから、「ケ」の食事の土鍋しか持たないような貧民ではありません。ほぼ、その村落では中心的な一族であったと考えられます。
 さて、神饌儀礼や特別な日の「ハレ」の食事での強飯を日常的に食せないから、それは困窮した庶民の姿であると考えるのは正当でしょうか? 

 最後に、一般に山上憶良の貪窮問答謌一首を貧窮問答(ひんきゅうもんとう)と訓むようですが、万葉集では漢字が違います。「貧(ひん)」ではなく「貪(とん)」です。つまり、万葉集の歌では貪窮問答謌(とんきゅうもんとう)と訓みます。この憶良の歌は仏教の四苦八苦の内の物欲苦からこの世の中を眺めたもので、困窮した庶民自身について詠うものではありません。
 この冬の寒い早朝、十分な温かい衣類を持たない村人の、その家族と寄り添って安らかに温かな小屋の中で寝ている村人を叩き起こすのは鞭を持った里長ですが、それをさせているのは歌を詠っている筑前国守である山上憶良です。さて、「術無きもの」とは、何に対してなのでしょうか? ここが難しいところです。
 現実として、筑前国守たる山上憶良が職務の一環で農村へと巡視に来れば、村人は憶良の朝食のために、暑かろうが、寒かろうが、決まった時間に早朝から叩き起こされます。昭和時代での薪を使い竃に羽釜を据え、蒸籠でもち米を蒸す状況から推測しますと、強飯の食事ですと、火起こしから食べられるまではおよそ二時間弱ぐらいでしょうか。それに竃が二口以上ないと汁類の調理は炊飯の後になりますから、二時間強以上は必要になります。当時、役人の勤務は朝、卯の三刻(六時半)から始まり、昼、牛の二刻(十二時)まででしたから、出先であっても食事は六時頃には取る必要はあったと思われます。ですから、貪窮問答謌の世界とは、冬の早朝、三時半ごろになるでしょうか。起きだしてからの炊飯の準備です。それでやっと、朝六時ぐらいの食事となります。それまで憶良は綿の入った温かい褥を纏って寝床で外の喧騒を聞きながらウトウトしていることになります。
 ただ、仏教の精神を良く知る憶良であっても官僚社会に生きている人間として、それが辛かろうと思っても仏教の乞食(こつじき)の精神が教えるように「私のための食事なんぞ、お前たち、里人の苦労を思えば、それは要らない」とは言えない所が気恥ずかしいところです。もし、今日のレンジでチンやトーストにコーヒーの時代であれば、憶良の心持は、ずいぶん、違ったものになったと思いますが。

貪窮問答謌一首并短謌 より末句抜粋
原文 須部奈伎物能可 世間乃道
訓読 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道
私訳 世の中は、このようなことばかり。これは、どうしょうもないのであろうか、この世の決まりとして。

反歌
集歌893 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
訓読 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
私訳 この世の中を辛いことや気恥ずかしいことばかりと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。

 奈良時代、庶民が何を食べたかを、昭和の古い人間の体験などを混じえながら考えますと、専門家が希望し描く農村の風景や庶民の生活とは違った姿があるようです。ここでのものがある一定の賛同を得られるものですと、万葉集での歌の解釈にも影響があるのではと思います。
 もし、若い方がこのブログにご来場でしたら、昭和の若い時代以前に生まれた方に、当時の農村の食生活を聞いて頂けたらと希望します。驚かれるでしょうし、ショックを受けると思います。昭和時代半ばまで、都市と農村のギャップにはすさまじいものがありました。その物差しとして、電気や水道が何時から使えたかも聞いてみて下さい。


作業員頓首謹上
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