竹取翁と万葉集のお勉強

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人麻呂時代の万葉女流歌人を考える 巨勢郎女

2009年10月19日 | 万葉集 雑記
人麻呂時代の万葉女流歌人を考える

 人麻呂時代に活躍した女流歌人を見てみたいと思います。額田王と鏡王女については、既に触れましたので、ここでは巻一と二で代表される六人の女流歌人の人物像について見てみます。その六人とは、巨勢郎女、石川郎女(大津皇子贈石川郎女)、石川女郎(大名児)、石川女郎(贈大伴宿祢田主)、石川女郎(大伴皇子宮侍)、石川郎女(佐保大伴大家)です。
 なお、一部の専門家の手による普段の解説にあるような、万葉集の歌々を飛鳥浄御原京、藤原京、奈良京での時代を区別することなく、一律に石川女郎と記述してあれば同一人物として解説するような乱暴なことはしません。素人ですので、丹念に歌の詠われた時代を推定して飛鳥浄御原京、藤原京、奈良京を区分して、人々を見てみたいと思います。

巨勢郎女

 最初に取り上げるこの巨勢郎女は、集歌101の歌の標で示されるように近江朝の大納言で御史大夫を務めた巨勢比登の娘で、その巨勢一族の本拠地は高市郡高取から御所付近です。

大伴宿祢娉巨勢郎女時謌一首 大伴宿祢、諱曰安麻呂也。難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子。平城朝任大納言兼大将軍薨也。
標訓 大伴宿祢の巨勢郎女を娉ひし時の歌一首 大伴宿祢、諱を曰はく「安麻呂」といへり。難波朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子なり。平城の朝に大納言兼大将軍に任けられ薨せぬ。
集歌101 玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
訓読 玉(たま)葛(かづら)実の成(な)らぬ木にはちはやぶる神ぞ着(つ)くといふならぬ樹ごとに
私訳 美しい藤蔓の花の実の成らない木には恐ろしい神が取り付いていると言いますよ。実の成らない木にはどれも。それと同じように、貴女を抱きたいと云う私の思いを成就させないと貴女に恐ろしい神が取り付きますよ。

巨勢郎女報贈謌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
標訓 巨勢郎女の報へ贈りたる歌一首 即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女なり
集歌102 玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
訓読 玉(たま)葛(かづら)花のみ咲きて成らずあるは誰が恋にあらめ吾(わ)が恋ひ念(おも)ふを
私訳 美しい藤蔓の花のような言葉の花だけがたくさんに咲くだけで、実際に恋の実が実らなかったのは誰の恋心でしょうか。私は貴方の私への恋心を感じていましたが。

 集歌101の歌の標に「大伴宿祢娉巨勢郎女時謌一首」とありますから、この歌は大伴宿祢安麻呂が巨勢郎女に求婚したときの歌になります。「娉」の漢字自体は「夜這い」を全く意味しませんから、これらの歌はプライベートな歌ではなくて、宮中での歌会での相聞歌なのかもしれません。
 さて、集歌126の歌の標(別途、掲載)を参照すると、巨勢郎女は壬申の乱の後年に大伴安麻呂との間に次男の田主を生んでいます。その大伴田主は「容姿佳麗で見る人、皆嘆息したという」と伝わっています。母親似であれば巨勢郎女は相当な美人であったと思われます。ところで、郎女の父に当たる巨勢臣比登は、近江朝の高官で壬申の乱において敗戦し、遠流の刑に処せられています。つまり、巨勢郎女は、身分は高く教養があるが、世をはばかる立場にあります。
 大伴家持の父である旅人(田主の兄)は、安麻呂の長男として多比等女、あるいは巨勢郎女を母親として天智三年(664)頃に誕生しました。また三男の大伴宿奈麿は和銅元年(708)に従五位下に昇階しています。当時の従五位下に昇階する年齢がおおむね三十五歳前後ですから、宿奈麿は天武四年(675)前後の誕生と思われます。これから、田主は次男ですので兄弟の中を取ると天智九年(670)前後の誕生でしょうか。もし、この推定で巨勢郎女が十八歳前後に田主を生んだとすると、郎女は斉明天皇時代の斉明元年(655)前後の生まれとなります。なお、集歌101の歌以外の郎女の消息は伝わっていません。また、田主は日本書紀などの正史に記載が無いので、中級官僚になる前に夭折したのではないかとされています。ただし、大伴田主は、万葉集の集歌126から128の歌だけで確認できる人物ですので、巨勢郎女が母親であるかもしれませんし、そうでないかもしれません。
コメント
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