竹取翁と万葉集のお勉強

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白村江の戦い 大和朝廷軍の大本営はどこか

2009年08月03日 | 万葉集 雑記
大和朝廷軍の大本営はどこか

さて、天智二年のこの大和朝廷の朝鮮派遣軍の軍団派遣と準備の軍令はどこで出されたのでしょうか。
百済・高麗救援軍や百済軍事顧問団の軍構成は、將軍達の名前などから大和地方や九州地方の豪族を中心とする血縁地縁による部族部隊とされています。間人連大蓋が率いる丹後半島の氏族や蘆原臣君が率いる東海の氏族も参加していますが、私は大和地方と九州地方の豪族が中心と思っています。まだ、律令体制に基づく農民からの徴兵軍では無いでしょう。日本書紀の記事に従うと軍の派遣の準備開始は斉明六年十月頃以降からですが、では、大本営はどこに置いたのでしょうか。私は、臨時大本営を伊予の熟田津石湯行宮に置いたと思っています。ちょうど、大和と九州の中間点に近く交通の要所でもありますし、大型船の泊地も十分です。
ここで、一部の専門家は日本書紀や古事記は信用できない文献として、飛鳥・奈良時代の大和朝廷の人々は瀬戸内海も満足に航行できずに、沿岸を行く地乗り航法しか出来なかったとしています。このために、山陽道の地乗り航法の航路から外れる伊予の熟田津石湯行宮へは、寄り道としています。一方、万葉集の歌や日本書紀の記事等から推測して、難波と筑紫との連絡は瀬戸内海の沖乗り航路を使用し、伊予の熟田津石湯行宮は重要な寄港地と思われます。およそ、天智天皇や大海人皇子たちは、朝鮮半島へ数万の軍勢で渡海する軍事構想において、大和の軍船が瀬戸内海を地乗り航路でしか航海が出来ないとは思いもよらなかったのではないでしょうか。ここで、少し付け加えるのならば、飛鳥・奈良時代の大和から土佐への公式の順路は、瀬戸内海を西に向かい伊予国から土佐国へ入るのが規定です。また、遣唐副使である吉備真備の唐からの帰国は奄美諸島から黒潮に乗り紀伊半島への直行最短ルートでしたし、飛鳥・奈良時代には天皇の御幸ルートや万葉集の和歌群からも難波・紀伊半島・知多半島・東海への安定した海上ルートが確立していたことが確認されています。つまり、「熟田津の歌」を考えるときに、伊予の熟田津石湯行宮は古代の交通の要所であることを忘れてはいけないようです。
なお、現在の歴史の解釈では、日本書紀や続日本紀の記事より万葉集に載る遣新羅使の歌だけを引用する一部の専門家の案が正統になっていて、当時の大和人の操る船は瀬戸内海の沖を直線的に航海できなかったが、朝鮮海峡は無理なく渡海できたと解釈することになっています。そして、大和人の操る船が瀬戸内海を直線的に航海するのは平安晩期以降とするのが約束です。矛盾していますが、これは古代史や国文学での常識としての約束で、この「貧しい白雉・飛鳥時代の航海術の約束」で「白村江の戦い」なども解釈することになっています。
ここで、航海に関係してこの集歌8の歌の月齢を考えてみてみたいと思います。

集歌8 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

集歌8の歌の月が軍船の出航の時のものとすれば、斉明天皇一行は三月二十五日に九州(娜大津)に到着していますから、路程を逆算して三月の月齢二十一日位の月となります。つまり、半月の月が夜半十二時位に昇ってきます。この斉明七年(661)三月二十一日は新暦の四月二十八日に当たります。月齢としては夜間出港には向かない月ですが、早朝の出港準備には困らない程度の月ですし、新暦の四月二十八日ですから日の出は五時二十分頃です。日の出を考えると、四時過ぎにはそろそろ出港が出来るはずです。また、海上保安庁の公表している潮汐の推算では斉明七年三月二十二日午前八‐九時頃が、関門海峡を東から西に航行するのに最適な潮流になります。つまり、斉明七年(661)三月二十一日の朝の出航は、伊予の熟田津石湯行宮からの出航にも穴門を通過するにも最適な潮であったわけです。
一方、朝鮮半島動乱の時期に、大和朝廷の政府首脳はこの熟田津石湯行宮で二ヶ月の日々を送っています。そして、「潮毛可奈比沼(潮もかなひぬ)」なのです。このとき、日本書紀の記事を信じるのならば、国内全域で朝鮮出兵の準備が急速に進められています。総勢二万三千人規模の軍団の九州(娜大津)への集結完了は九月ですから、動員令による先遣部隊は六月前後には九州娜大津へ集結を開始していると思われます。古代でも、当然、朝鮮海峡の渡海を予定する大規模な動員には数ヶ月はかかるはずです。つまり、国内での手立ては全て打って、事態の進行を待つ段階まで来たのが斉明七年三月二十日頃ではないでしょうか。
従って、万葉集の編纂における熟田津の歌とは、
「やる事はやった。さあ、行くぞ。」
こんな雰囲気での歌と、私は思っています。

集歌8 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
意訳 熟田津から船を乗り出そうと遅い月の出を待っていると、月も出て潮も都合が良くなってきた。さあ、漕ぎ出そう。
私訳 熟田津で朝鮮に出兵するための対策を立てて實行してきたが、全ての出陣への準備が願い通りに整ったし、この遅い月の月明かりを頼って出港の準備をしていたら潮も願い通りになった。さあ、今から出港しよう。

いわゆる、「白村江の戦い」に参戦した大和の軍勢は百済王の要請と承認を受けた軍事顧問団で、百済王豊璋と朴市田来津との王都の位置の論争でも判るように百済王の指揮下に入っているような形で、日本書紀では記述されています。他方、高麗・百済から要請を受けた大和の新羅懲罰軍は、別働部隊として大和朝廷による任那復興に主眼を置いたような動きをしていますが、なぜか、百済国の最終滅亡後にはあっさり軍を引いています。出兵した各豪族は、百済・高麗・伽耶などの難民を分配することで、戦いの益を見出したのでしょうか。
穿って、当時の大和朝廷は大和民族の単独の王朝だったのでしょうか、それとも場合により皇極天皇期以降は、大和朝廷は大和・百済連合王国の形態であって、大和・百済連合王国が百済義勇軍を派遣したが、その根拠となる百済王家と百済義勇軍が滅んだため、義理の無い大和民族は新羅と和解して大和に引き上げたのでしょうか。なぜか、歴史では天武天皇系の皇族や蘇我系の氏族は新羅との協調を求め、天智天皇系や藤原系の氏族は新羅と敵対し百済との連合を求めます。日本書紀は百済帰化系と称される藤原氏族の視点で書かれた史書ですので、それで大和民族の古事記とは、ずれがあるのでしょうか。
なお、天武時代頃から、豪族に対して朝廷の力が勝ってくると朝鮮半島からの難民は朝廷配下に納められ、東国開発の原動力とされるようになります。それらの多くの難民は百済系の難民ですから、建前上、朝鮮半島での対新羅戦争の対策ですと百済遺臣が先頭に立つのが筋となります。そして、東国の住民は朝廷直轄の百済系の難民が中心です。朝廷としては、筋や建前として優先的に東国人を防人に使うのがやり易かったのではないでしょうか。それが兵の強弱とは別に、「白村江の戦い」時代の兵の構成と後年の飛鳥・奈良時代の「防人」の兵の構成が違う理由と推測されます。
なお、この熟田津の歌が詠われた斉明七年(661)から遡ること二十二年前の舒明十一年(639)の九月に大唐からの僧侶を伴った新羅の使者が大和を訪れ、その直後の十二月に天皇一行はこの熟田津の伊予温湯宮に御幸をしていますから、天皇一行は盛大に新羅の使者を熟田津まで送ったのかもしれません。そのとき、当然に多くの大船が随行したでしょう。ちょうど、斉明七年三月二十一日の朝の景色のように。
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