読書日記

いろいろな本のレビュー

どのような教育が「よい」教育か  苫野一徳  講談社選書メチエ

2011-11-20 08:31:10 | Weblog
 教育論は切り口が多様なため、政治家の選挙公約に盛られることが多い。曰く、エリート教育、落ちこぼれをなくす教育等々。しかし教育は人間を扱う営為である故、最後は普遍的な倫理問題に行きつく。本書は何が「よい」教育かという問いのもと思索を巡らす。そしてヘーゲルの「自由」についての議論に注目して曰く、フランス革命について、革命によって{自由}が解放された人々は、自らの{自由}を妨げようとする一切のものを、否定し破壊しようと試みた。それゆえヘーゲルは次のように言う、「絶対自由」を欲し、桎梏たりうる一切のものを破壊しようとしたこの「事業」の意味したもの、それは結局のところ、{自由}などでは到底なく、ただ「死」のみであったのだ。十全な{自由}は、絶対的な無限性の素朴な主張にも、これを絶対的に押さえつけるところにも、あるいは一切の権力や制度を廃して再び絶対的無限性を主張するところ(恐怖政治)にも存しえない。自らが十全に{自由}たりうる唯一の社会原理、それは、互いに他者が{自由}な存在(自由たろうとする意志を持つ存在)であることを認め合う、{自由の相互承認}の理念のほかあり得ない、と。
 こうして教育(公教育)はこの原理(理念)をいかにして実質化出来るかということにかかってくるが、そのためにはこどもに一定の{教養=力能}を育成する必要があり、さらに教育(公教育)の正当性の原理として{一般福祉}(=すべての人のための福祉)を促進させることが必要と述べている。この教育観は早い話が、今、日本で行なわれている公教育そのものではないかという気がする。今の教育をそのまま続けよという激励だと私は感じた。どこかの地方政党が教育基本条例を出して、エリート育成、ダメ教師撲滅をスローガンに掲げて選挙運動しているが、普遍的倫理に抵触しているがゆえに悪法だと判定できる。またその政党の党首はこれまた首長に不適格なのも明白。先ほど引用したヘーゲルの言葉を復唱しよう。「十全な自由は一切の権力や制度を廃して再び絶対的無限性を主張するところ(恐怖政治)にも存しえない」教育は一にかかって普遍的価値を求める営為なのだ。保護者のサービスに奉仕するものではない。しかし、テレビのアホ番組で低能化された民にこの理屈がわからないのがもどかしいところだ。テキはこのテレビで人気者になったゆえ、民のアホさ加減に取り入るのがうまい。本を読まない層が国を傾けるだろう。