羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

メッセージ

2005年06月16日 | Weblog
自分宛に来る手紙って、大体において嬉しいものですよね。
今日、少し雨に濡れて一通の封書が届きました。
彼女は静岡に住んでいる友人です。
だいぶ前、わたしの新聞への投書を読んで手紙をくれました。

それから何年も、ポツポツと文通を続けています。
中間地点の神奈川で会ったこともあります。
前回の彼女からの手紙に『クレマチスの花がたくさん咲いた』と
書いてあったので、『どんな花だったかしら?』と返信に書き添えたら
すぐに写真を撮って送って来てくれました。

わたしが、いつもいつも遅れて、ようやく手紙を書くのに、
彼女は対応が素早いのです。
そして毎回違う絵柄の切手をさりげなく貼ってくれます。

ところで、、、

実は最近また(?)夫婦喧嘩をして、わたしは『今度こそダメかも・・・』と、
考え、良い方向へ転換するのに疲れていました。
でも、今日、好きな人からのメールを読んで、心が和んでいます。

手紙と、メール、わたしに向けられたメッセージに
元気を貰いながら、どうにかまた、やって行こうと思います。

『傘がない』

2005年06月15日 | Weblog
雨ですね。
この中古のパソコン、不安定になっていて、
昨夜せっかく書いたブログが消滅してしまいました、カナシイ・・・。
ところが、それなのに、今アクセス状況を見たら更新していないのに
アクセスして下さっている方がいて、、、少し不思議な気持ちでした。
もちろん、『また書こう』という気にさせてもらったので嬉しいです。
でもね、これ今も文字を打つ度に画面が揺れてる、この不安定、しかも
目が疲れる・・・、また投稿しようとすると消えるかも・・・。

昨夜書いたのは『傘紛失事件』でした。
過去の出来事を一区切りして、先週の金曜日に傘をなくした事を書きました。
節約主婦のわたしが数十年振りに購入した紫の傘、内側が花模様。
大切なので、なるべくシッカリ手元に持っていたのです。

でも先週の金曜は、ちょうど今日みたいにひどい雨で、
娘と仕事前に寄った文具屋には、傘を入れる袋もなく、
おまけに、わたしの傘によく似た古い傘が無造作に傘立てに突っ込んであったのです。
すごく迷ったけれど、濡れた傘を店内に持ち込む迷惑を考え、
2箇所のスナップをきちんと留め、娘が上に自分の傘をからめてひとつにし、
傘立ての隅に置きました。

でも創作用のノートを買い、短時間で出て来たときにはもう、わたしの傘は
消えていました。
おそらくあの古い傘の持ち主、(たぶん同じような世代の女性)が
『故意に』取り替えて行ったのだと思います。
ひとの傘を使って気持ちよいのでしょうか。
もちろんわたしは、そんな人の持ち物を使う気になれず、
店の人に言ってビニール傘を借りました。

その人が大切にしてくれるなら、仕方ない、と諦めることにします。
(いまこれを書いていてやっと、そう思えました)
でももしも街で、表面が紫で内側が大きな花模様で柄が茶色い傘をさしている
人を見かけたら『それ、あなたのですか?』とどうしても聞きたくなりそうです。

土日は逢えない

2005年06月09日 | Weblog
初夏から秋にかけて、その人メールしたり短い時間会ったりしました。
土曜、日曜は家族と過ごすので、会うのはいつも仕事のあとや、仕事の途中。

わたしは「野鳥の会」や「文芸サークル」や「患者の会」などいろいろな
ところに顔をだしていたので、当時、土日に外出することは出来たし
たまにはその人とゆっくり会いたいな、と思っても結局一度もそれは
叶いませんでした。

以前のメール相手で、奥さんの悪口や愚痴を言う男性も何人かいたけど、
そう言う人は、わたしはちょっと敬遠気味。

わたしは家庭を大切にする男性が良かったので、
彼が土日をわたしのために空けてくれなくても仕方ないと思っていました。
もちろん寂しさはあったけれど、程よい距離感として考えればいい。
どんどん好きになってしまわないためにはそれでいいと、
考えようとしました。

結婚してから17年経て授かった赤ちゃんの話しをするときは
本当に嬉しそうでとても微笑ましく感じたものです。
そして結局彼は愛する家族のもとへと帰って行きました。
「赤ちゃんが自分を目で追うようになってきた」という理由は
彼に、浮ついた気持ちを捨てさせるのに充分だったかもしれません。

『きっともう逢えない』と思いながら、帰りのバスに乗ったあの日、
バス停まで送ってくれた彼は足元にアタッシュケースを置いて
煙草に火をつけていました。
発車するバスの窓から、その彼に小さく手を振って、
わたしの恋も遠ざかって行きました。




迷いながら・・・。

2005年06月08日 | Weblog
わたしはその恋へ、躊躇いもなく飛びこんだ訳ではありません。
当たり前ですが、とても迷いました。
『家庭外で誰かを好きになる』という未知数は、
好奇心や興味よりも、怖れや戸惑いの方がずっと大きかったのです。

でも、そのひとの優しい眼差し、傍らにいるときの安堵感は、
心地よくわたしを満たし、入院中そして退院後の不安定なときを
支えてくれました。

そのひとはとても家庭を大切にしていました。
奥さんの写真も、生まれたばかりの赤ちゃんの写真も、
いつも持ち歩く人でした。
彼にとってわたしは家族とは別の存在であり、わたしはそれでいいと
思っていました。
『なんとなく恋の予感』そんな曖昧なふんわりした時間が二人の間には
あったような気がします。

「好きだな」と想うことはときに苦しく不安もあったけれど、
何事も急がないような彼のペースに落ち着きを取り戻したりしました。

家庭外で誰かを好きになるのなら、
わたしは何があっても受けとめよう、きちんと向き合おう、と
ひそかに心に決めた頃です。

恋の始まり

2005年06月07日 | Weblog
今はどうかわかりませんが、5~6年前の携帯の出会い系サイトは
軽いノリでアクセスしあうのが大半で、妙にマジメなものや、
本音が見えたりするものは、あまり受け入れられなかったような気がします。

みんなバーチャルな世界で気軽に楽しめる相手を求めていました。

わたしも「そんなもんよね」とタカをくくり適当にメールして
その場で楽しく会話できればいいと思うこともあったのです。

でも互いに勝手なイメージを作り上げて、ゲームだと割り切れるほど
わたしは若くはなかったし、何より『わたしはわたし』という自己への
こだわりは強かったかもしれません。
孤独なエゴイストがドアの鍵をしっかりかけて窓の外を眺めているように
『ひとはひとりだ』と感じていたわたしは、
訳のわからない寂寥感の中で、ある日その人の書き込みを読んだのです。

珍しくマジメな雰囲気のする文でした。
メールの返信はすぐに来ました。
でも、サイトでの出会いは『どうせみんな遊びなのだから、少しでも本気に
なったら必ず傷つく』と、ほんの少しの経験上知ったつもりだったので、
用心深く、会わないようにしていました。

「ちょっと入院するからメールできなくなるけど、
退院したらまたメールするからね」そんなやりとりのあと、
彼は決心したかのようにわたしに会いに来ました。

『寂しさ』って何?

2005年06月06日 | Weblog
『ひとは結局はひとりなのだ』と思っていました。
分かり合える、とか共感する、というのは幻想かもしれない。
一人だということを認識したときにはじめて他者との繋がりは
生まれるのかもしれない。

いい歳をして『愛する』さえもわからなくなっていました。
子供たちへの無償の愛、はまだ理解できても、
夫に対する自分の愛情に自信が持てなくなっていました。
「わたしは、冷たい人間なのだろうか?」という気持ちもしました。

でも『ひとりだなぁ・・』と感じることは
たまらなく寂しかったのです。
そしてわたしは決して「寂しい」と他者に訴えるタイプではありませんでした。
むしろ素直さにも欠け、心を開くことは苦手だったかもしれません。

わたしが初めて携帯を手にしたときにはあまりなかった『出会い系サイト』は
あっという間に増えて行きました。
「出会い」はもうどこにでもある安直なお手軽なものになりつつありました。

『ヒマを持て余した欲求不満の主婦』というふうに軽薄な対象にされるのが
その頃すごく嫌だったのを覚えています。

出会い

2005年06月05日 | Weblog
前回の続きです。
「大丈夫」と強がって手術に臨んだわたしの
本当の心細さを見ぬいたかのように、
病院に会いに来てくれた人がいました。
手術前日、仕事を抜け出してきてくれた彼と
病院の屋上で新宿の夕景を眺めました。

その日、わたしはベッドの上で『屋上』という詩を
走り書きしました。

出会い系サイトの人とは会わない、と決めていたつもりなのに
彼の熱心さに安らぎを覚え始めていました。
包み込まれるような、優しい笑顔の人でした。

孤独感

2005年06月03日 | Weblog
五月に書き始めたこのブログ、
過去を振り返りつつここまで来ました。
今回は五~六年前の出来事を書いてみたいと思います。

我が家はどうにかサラ金返済を終え、
長男は大学進学を控えていました。
高校生の長女は通院のたびに検査結果に一喜一憂。
どうにか透析を避けたいと一生懸命に食事療法をしていましたが
とうとう、腎機能が落ち始め透析導入となりました。

その頃、同居していたわたしの父に
アルツハイマーの兆しが見えはじめました。
心臓病もあり、入院。
わたしは父や娘の病院に付き添いつつ毎日、頭痛薬を飲むようになり
長い間続けていたシッターの仕事を辞めることにしました。

お正月に父が亡くなり、その年の夏休みに、
わたしから娘へと移植手術が行われました。
その直後にはわたしの母親の膝人口関節の手術。
退院したばかりのわたしは今度は母親の病院と、まだ入院している娘の病院へと
通い、やがて手術前に見つけたバイトに復帰しました。

とにかく夢中で過ごして来たあの日々。
わたしは決して一人だけで頑張っていた訳ではないけれど、
気持ち的にはひどく孤独でした。
例えば、移植手術。それは待ち望んで積極的に臨んだものでしたが、
不安がなかった訳ではないのです。
「がんばっておいで」と、抱きしめてくれる人が欲しかった。

でも夫が言ったのは「手術したら、もう傷モノだから浮気とかできないね」。
そんな言葉でした。
夫はいつでも、頼りにならない傍観者だったように思います。
母親の受診日が、わたしの退院翌日だったのですが
夏期休暇の夫は頼まなくては車も出してくれないし病院に着いても
何もしてくれない。足の悪い母親を座らせておいて、まだ傷口の痛むわたしが
受け付けをしたり何だかんだと動かなくてはいけませんでした。

わたしは、いつしか携帯の出会い系サイトで知り合った相手とのメールの
やり取りに気持ちが和むようになっていました。

さよなら、五月。

2005年06月01日 | Weblog
6月ですね、雲さん、詩をありがとう。
昨日の午後、空には箒で掃いたような雲が
流れていました。
雲を眺めているのは好きです。
詩を書く『雲』さんはミヤビなアソビ?
でもわたしは好きなひとと手を繋ぎたい。
好きなひとは「あ」と思った瞬間にキス。
はたちの頃でも歳を重ねても、
ぼんやりしてるわたしにキスは、
小さな雨粒みたいに落ちてきます。

明日、雨は降るのでしょうか。