羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

鯛茶漬け

2011年08月31日 | Weblog
「ナルニア国」の映画の券をもらったから行こうよと誘ってもらったので、

ナルニア?新作の試写会なのか?とよくわからないまま「うん」と答えておいた。
テレビで放映したのしか観ていないし原作も読んでいないが、
久しぶりに銀座まで出て行った。
彼女は食べることが好きなひとで鯛茶漬けの銀座うち山に行ってみたいとのこと。異存はなし。

高級料亭のランチ、ということで店内は女性ばかり。
鯛茶漬け初体験。ちょっとタレの味付けが濃いかも?とあとで二人で話したけれど、
もちろん美味しかった。
わたしは雰囲気のある店を探すのは好きだけれど食べるものにはあまりこだわらない。
だから「美味しいものが食べたい!そういう店を探すのが好き!」という友人がいなければ
見つけることも行く機会もなかったと思う。

映画(ナルニア3だった)を観た後に早めの軽い夕食をとるところまで、
「時間がだいじょうぶならここ行こう」と決めておいてくれた。
あの職場で仕事をしなければ出会わなかったはずの人たち。
とっくに転職をした彼女と会うことはめったにないが「またね~」と笑顔で
別れてきた。



猫ブログ拝見

2011年08月29日 | Weblog
どうにか原稿もできたかもしれない。
毎日そのことが気がかりで煮詰まっていたけれど、
どうにかこうにかさっき「後書き」を書いた。

母に「ちょっと書いてるからあまり様子を見にこられないけど、
大丈夫?」と生意気な台詞を言ってみた。
たぶん母は理解しないだろうと思って軽く言ってみたのだ。
ところが・・・!母は「だいじょうぶ」と力強く答えてくれた。
それどころか、その後、二階のわたしの部屋へ上がってきて、
「これね、美味しかったから」とミニ大福(袋入り)を持ってきてくれたのだ。
それは甘味が好物の母のためにわたしが昼間母の所へ置いたものだった。
(半分くらい減っていた)

母と会話するたびにつよい口調になりそうで反省していた。
「さっき言ったでしょ」と言わないようにしようと思っても、
なかなかうまくいかない。
いろいろな言動も症状のひとつ、と冷静になろうとは思う。
だから、口実をつくってじぶんの部屋に逃げていることが最近多かった。

時々一階におりて母の様子をみたりすこし話したりしている。

そういうわけでイマイチ不振ながら「薄紫の冬桜」二号も出来つつあり、
今日は猫ちゃんブログ二ヶ所におじゃました。
かわいくて目が釘付け状態。いいな~、かわいいな~、羨むことしきり。
駿はいなくなってしまったけれど、よそのお家の猫ちゃん写真で心が和む。

そうそう、あんなに猫が嫌いだった母も駿のおかげで猫大好きに変身した。
いまでも外から帰ってくると玄関で「駿、ただいま」と呟いている。
これはもう駿はいないとわかっている母の優しくて悲しい確認作業なのだと思う。

夏休みの宿題

2011年08月19日 | Weblog
「今年こそは出す」と去年も言った、
たしかに言ったのに実行できなかった気持ちが片隅にあり、
夏の真ん中に「今度こそ宣言」を長女とした二人誌「薄紫の冬桜」。
このままではマボロシになってしまうのでまだ創刊号を読んでいただいた方の
記憶に多少でもあるうちに二号を発行しようと決意した。

「もう帰るところはありません」という詩集をだしたとき、
一冊分のファイルの取捨選択を松下育男さんに見ていただいた。
「これでいいと思いますよ、残りはまた次の詩集で出せばいいんです」と、
笑顔で言ってくださったことが嬉しくて安心もした。

そのファイルはそのまま松下さんがお持ち帰りになったので、
未発表の作品は古いフロッピーにそのまま眠っていると思う。
眠っているこどもたちを置き去りにしたような気がして、
あらためてどこかに発表しようかと思うこともなくはなかった。

そしてすこしのときが過ぎ、「薄紫の冬桜」創刊号でまた取捨選択。
ときどき思う。
捨てたわけではないのだけれど、
捨てたようにそのままになっている僅かな詩、、。
ひろい集めてみよう、そして新作がなくても「薄紫2号」にしてみては?
と思ったのが浅はかだった。

パソコンの中に2~3年前の詩を探す。
散在していてなかなかない(ふつうはドキュメントにまとめておくだろうに)。
ワードはごちゃごちゃしていて二台のパソコンに混在している。
どこかで何かを書いた気がして探して見つけてみると、
詩のかたちはどうにかしていても、なんというか推敲もしていないし、
緊張感?もなく、、「全然ダメだ」と落胆した。

ブログの中で書いていたり、ふと言葉のカケラを書き留めたりしたものが、
すこしだけ見つかってそのたびに自信喪失した。
唯一、年に一度だけの発表の場「灰皿町」に投稿したはずの詩が何故か見つからない。
サイトでもアンソロジーの更新はなくてさらに行方不明。
たしかに一年に一度は投稿しているので、ないとなると探す。
まさか管理人の清水さんに「わたしの詩を教えてください」という訳にもいかない。

ダメだと思いながらも稚拙なりにまとめておこうと考える。
これは無名の詩人の自尊心なのか。

ノンフィクションの詩なんてないんだよ、そういう読み方をされることへの壁。
だけどいっぽうで、柔軟に受け取ってくれる方たちもいる。
じぶんのこころと作品に向き合う夏の午後。

夏休みの宿題。

古本をマイバッグに入れて

2011年08月16日 | Weblog
古本屋のレジスペースは狭い。
狭いながらもう10年以上はここで仕事をしてきたので、
すっかり慣れている。(でも蚊や蛾や時にはゴキブリが恐怖)
その狭いところでパソコン入力作業をしていると
本当に肩がこる。
そうとう旧式のレジ、その横に古本を積んだ机、その脇にパソコン本体。
パソコンのモニターは机の前の折りたたみ椅子。
キィボードはその前に(何と!)踏み台に古本を重ねて置いてある。
ものすごく不安定。姿勢も悪くなるが今は在庫をアマゾンに出す作業に
集中しているので仕方がない。
マウスを動かすために商品の写真集(売れてないやつ)を勝手に運んできて
そこで仕事をしている(目をしょぼしょぼさせながら)。

時々みえるお客さんのなかで印象深いのが年配のご婦人。
顔を覚えているだけで何人かはいらっしゃるが何故印象的なのかと言うと、
格安な文庫(30円からある)を数冊選んで持参のマイバッグに入れて
帰られる、ということが共通しているからだ。(マイバッグはスーパーの袋の
再利用のことも多い)
家族の病院通いに付き添うときに読むの、と微笑むかたもいれば、
100円文庫はあっても30円はここだけ、と朗らかにおっしゃるかたもいる。
ミステリーや時代物など、お好みもほぼ決まっている気がする。

年長の女性たち。慎ましく生きているのかもしれない彼女たち。
それでも本を傍らにおき、読書を愉しんでいるのだろう姿は素敵だと思う。
じぶんの近い将来をふと重ねてみたりする。


夢の波間

2011年08月08日 | Weblog
「座・高円寺」で劇団300の「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」を
観たことが、母の洗濯物を手洗いしていると夢だったような気がする。

まさに真夏の白昼夢だったような休憩なしの二時間半を過ごしてロビーに
出ると外は強い雨とカミナリ。
劇は客席通路や高部、舞台下(奈落?)まで縦横無尽に使って小劇場のメリットを
最大限に生かし、役者さんたちの溢れるパワーに殆ど圧倒されっぱなしだった。

ゲゲゲのげ、と何故か二文字は平仮名。きっと渡辺えりさんのこだわりも
こういうところにもあるのだろう。
あちらがわとこちらがわの境目は目をこらしてもわからない。
わかろうとするときからすでに異境に入り込んでいるのかもしれない。
鬼太郎役の中川晃教さんの「目玉親父」一人二役(声を変えるだけ)もなかなかだったし、
馬渕えりかちゃんが溌剌と演じていて可愛くて印象的だった。

そんなことを思い出しながらの今日、
渡辺えりさんのインタビュー記事に「演劇って漢方薬みたい」とあった。
じわり、と効いてくるものがあるのだと思う。

逢魔が時に揺れるブランコの音がどこからか聞こえる。
聞こえる?と思っているといつの間にか夕暮れは去ろうとしている。
その僅かな至福のときを感受したくて、
また次の舞台を探す。
ゴミを仕分けて洗濯をして、食事の支度をしながら、その日を探しその日を待つ。
そしてこうして夢の波間を漂う。


ゴーヤの種を取りながら

2011年08月05日 | Weblog
思い出話や昔話なら何度でも聞ける。
むしろ耳に馴染んで聞きやすいくらいだ。
困るのはわたしや家族について勝手に解釈したり
思い込んだりしてそれをくり返し話す場合。

これに辛抱強く対応するのは修行がいる(かもしれない)。
まともに向き合って訂正したくなるのだ。
たいしたモンダイではないがどうしてそんなことを
勝手に思い込んでくり返すのか、、、?
いい加減にしてよと言いたくなるのをぐっとこらえる。

母は病気で、しかも「なんだかアタマがぼんやりして」という自覚まであり
つらいのは本人である。

だけど何度も何度も遭遇すると母との会話から逃げたくなる。
ただでさえあまり喋らないわたしが意識して母の所へ話し相手に行くのが
億劫になる。
以前、母はよく二階のわたしの部屋まで来た。
「そこにいるの?」と言いながら。
今でも調子の良い時には階段を上ってくる。
けれど頻度は減った。母が来てくどくどといろんなことを言われるのは
仕方ないと思っていたが、きっとわたしの顔に「ややうんざり」と
かいてあったのだろう。
楽しい会話をして笑っていたい。母の笑顔に安心したい。
しかし実際はなかなか難しい。

そんなことをゴーヤの種とワタを取りながら考えた。
台所で黙々と手を動かしているとき、きっと誰でも何かを考えている。

先日朝、何気なくつけたテレビに江川悦子さん(特殊メークアップアーティスト)が
出ていらした。ご活躍、すごいと思う。素晴らしい。
もう二十年以上前のやはりこういう夏の夜、
彼女の娘さんとうちの子供たちと花火をしながらお帰りを待っていた事なんかを
懐かしく思い出した。
あの頃、母もとても元気で幼い子どもたちはみんなおばあちゃんが好きだった。
明日はそんな話をしてみるのもいいかもしれない。